Powered by Six Apart

映画 Feed

2018年5月10日 (木)

ダンジョン&ドラゴン2

前作がチープなB級映画なりに楽しめたので続編も観てみました。
今回の主人公・ベレクは騎士。
近衛隊長から宰相に抜擢されるほどの傑物で近衛隊員からも絶大な人気を誇る、ヴェスパシアヌスのような人。皇帝ではないけどね。
奥さんはメイジのメローラ。
奥さんを口説き落としたことを高貴なメイジを堕落させたと言って、メイジが貴族だった前作と同じ舞台であることを印象づけている。
メローラが初登場の時、この世界の魔法について興味深いことを言っている。
知識を学んで使うメイジの魔法と異なり、聖職者の魔法は神の恩寵によるもの。
自分はそれを使えるようになりたいと。
マジックユーザーの魔法とクレリックの魔法は違うと言うD&Dの基本を説明してくれているわけだが、シングルクラス一辺倒ではなくマルチクラスも十分に可能なことがわかる。
ちなみにメローラが使いたいと言っているのは修復の魔法。
5eなら回数無制限でいくらでも使える初級変成術呪文くのメンディングだ。
世界が違うと有利な点も不利な点もある。
ストーリーは前作と同じアーティファクト争奪戦。
黒幕は前作ではラスボス以上に目立ちまくりだったダモダー隊長さんがメイジにクラスチェンジして務める。
ここら辺あまり深く考えてはいけないだろう。
生前のダモダーがいた頃はメイジが支配階級の貴族だった時代だし、あのダモダー配下の騎士達はメイジの家系に生まれながら魔法の才能が開花しなかった者達と考えるのが妥当だ。
死から甦る際にそれが開花したとしても不思議ではない。
さて、街の近くの洞窟にドラゴンが!
低いところにたまった毒ガスを魔法で風を起こして吹き飛ばすのが頭いい感じ。
この方法は実際のロールプレイでも使えそうだ。
この魔法はクラシックにはなかった。
風を起こすなんて簡単な魔法がなかったと言うのは今にしてみると驚きだ。
まあ俺のクラシックD&Dの知識は青箱止まりなので、実はあったのかもしれないが。
5eなら2レベルの力術に「ガスト・オブ・ウィンド」があり、しかも呪文の説明文の中に使用例としてまさにこの使い方が書いてある。
幻視の呪文に高価な物質要素が必要でメローラがそれを自分の旦那におねだりするのもいい。
ここまできて5eの要素が結構入っていることに気づく。
もちろん時系列的には5eの方がずっと後だけど。
このドラゴンがかつて放浪時代に聞いた言い伝えのそれだと気づいたベレク、その言い伝えについて調べるメローラ。
その過程で使い方によっては世界を滅ぼしかねない宝珠と、それを悪用しようとしている者たちの存在を知る。
争奪戦の始まりだ。
議会は最初メローラの話を信じないが、証拠があると即座に事態の深刻さに気づいて対策に当たるあたりはさすがメイジだ。
この国は大丈夫だな。
国王の命令でベレクを隊長とした探索隊が編成される。
バーバリアンにクレリックにエルフの魔術師にローグ。
ローグの同行を強く進言したのは、ベレクが冒険者あがりだからだろう。
バーバリアンが最初は男だと思わせておいて、その男を叩きのめす女の方が目指すバーバリアンだったと言うのはなかなか好きな演出。
この姐ちゃんは要チェックだ。
奥さんが同行しなかったのはちょっと意外だが、ベレクの優しさがよくでていた。
ダモダーの潜む納骨堂に向かう途中でドラゴンに遭遇する。
クレリックのドリアンがひとりでドラゴンの前に立ちはだかったのは、炎を防ぐ魔法があったからなんだけど、このドラゴン、炎が防がれたとわかったらすぐに冷気のプレスを吐いてくる芸達者。
お前はフレイザードか!
1名脱落だ。
TR PGのセッションだったら回復役がいなくなったどうしようってところなんだろうが、RPGと映画は違う。
頻繁に手傷を追ってちょくちょく回復するってのはゲームならいいが、映像でやると手傷を負うこと自体に緊張感を感じられなくなるから、如何にゲームを原作にしようとも「そもそもダメージを喰らわないようにする、という通常の作劇の作法にならざるを得ない。
ドラゴンを何とか撃退して次は納骨堂周辺の戦い。
ベレクとローグのニムが納骨堂入り口の暗号に四苦八苦している間に、バーバリアンとエルフの魔術師の紅二点が雇われた山賊達を食い止める。
この映画の主役夫婦と並ぶもう一つの名コンビは、最初は反目しあってたが互いを認め合うようになる女バーバリアンとローグで、特に女バーバリアンはシーザー・ツェペリの「友人を作るのは下手だが惚れ込んだら(不正確)」を地で行く熱意でまずニムを、次いで仲間達を大切にするように。
そんな中でエルフはいまいち存在感がないんだが、この戦闘では迫り来る山賊達に次々と電撃を見舞うという活躍を。
この映画をリアルタイムで知らないし、公開時点でのD&Dや他のTRPGのルールもよく知らないけど、魔法を連発するという考えはなかった筈。
でも、回復魔法と逆で、どんな弱い魔法でも回数制限を減らしていくから滅多に使えない描写にすると、こっちは逆に盛り下がるのが一般的な殺陣の法則。
5eには無制限に使える初級呪文がたくさんあるけど、この映画を含む無数の魔法を徹底的に撃ちまくる映像が影響してのことなんだろうなぁ。
物語の後半はあまり魔法を使わないので省略。
まあ、留守番の奥さんが古代人がドラゴンを封じた方法の研究を多くのメイジ達と一緒に進めているんで、魔法に絡むストーリーではあるんだけど。
楽しめるところは多々あったものの、展開が優等生すぎる上にだんだんと低空飛行に。
ドラゴンともダモダーともデーモンとも戦いらしい戦いもなく終わってしまった。
個人的に知恵と勇気とチームワークを駆使して戦いを回避して勝利を得るのは嫌いじゃないから、この3体のボスのうち1体くらいならそれでもよかったんだけど、3体全部がそうだとどうしても竜頭蛇尾な印象を受けてしまう。
伏線も未回収が気になるものがあり、特に近衛隊長時代の部下である現近衛隊長がいかにも何か話に絡んできそうだったのにそれっきりなのはどうなんだろう。

2018年5月 7日 (月)

ダンジョン&ドラゴン

あちこちでネタ映画的扱いをされていてちょっと食指が伸びなかったんだが、昨年からのD&D復帰を期に見てみました。
そしたら、単にあまり面白くないB級映画ってだけで、そんなに叩くような物とも思えない。
いや、D&Dファンからするとカチンとくる部分があちこちにあるのは分かりますよ。
でも、「馬鹿にしてもいい映画」カテゴリに入れられて、いかにスタイリッシュかつスノッビーに小馬鹿にできるかを競っているようで、みっともないっていうかいい気分じゃない。
D&Dの設定といろいろ違っていて、D&Dを名乗る意味がないのも確かなんだけど、見るべき点もいろいろあるじゃないか。
てなわけでポジティブにいろいろ突っ込んで行こうと思います。
まず冒頭のナレーションで「イズメール王国」と言うのが出てくる。
D&Dの背景世界にはあまり詳しくないんでさっそく検索。
どうやらフォーゴットン・レルムでもドラゴンランスでもなく、映画オリジナルの世界の模様。
ならば設定がどうとかあまり深く考えなくていい気分になる。
メイジがメイジ以外を支配している世界。
字幕だと貴族にメイジとルビがふってある。
住民は奴隷同然、とナレーションでは言っていて、若き女王はそれに心を痛め平等な社会を志向、評議会はそれに反対している。
ここらへんの設定の粗さが批判の原因なのは分かる。
奴隷同然とか言うから魔法が使える貴族が魔法が使えないそれ以外を魔法で意のままに操っているのかと思いきやそんなことは全然ない。
少なくとも画面からは豊かで栄えて楽しそうに見える。
逆らっても魔法で無理矢理にでも言うこと聞かされてしまうような理不尽が描写されていれば少しは世界観に説得力が出たかもしれない。
説得力がないと現体制に疑問を抱く女王に感情移入できないのだ。
ただこれはこの映画だけの欠点ではない。
「グラディエーター」で権力を市民に戻すみたいな現在の価値観バリバリの発言があって激しく落胆したのももうだいぶ昔のことになるが、古代中世近世が舞台なのに現代民主主義万歳な主人公周辺の映画に今更いちいち腹を立てるのは虚しい事だ。
「単に劇中で描いている時代ではこういう人権意識だったと言うだけで、別に我々がこういう人権意識を賞賛しているわけではない」という当たり前のことを理解できずに批判する人権家がいる以上、映画で現代以外の価値観を劇中世界のスタンダードとする事は無理なのだ。
とは言え人々の暮らしは貧しいようだ。
2人の若者リドリーとスネイルも魔法大学にこそ泥に入る。
敢えてD&Dに当てはめるなら、この2人はレベル1くらいのファイターだろう。
盛んに泥棒、こそ泥という言葉が出てくるし、盗賊ギルドまで登場するからシーフに思えるが、そうではあるまい。
そもそも泥棒は誰でもできる仕事だ。
騎士や僧侶が(たとえ相手が悪人でも)他人の家に潜入して盗みを働けばそれは泥棒だ。
TR PGにおいて泥棒と言う言葉を出す場合、それが他人のものを盗む人全般を指す広義の泥棒かクラスとしての狭義の泥棒かは常に意識する必要がある。
そこらへん5eなら背景とクラスは別だから、泥棒を生業とするクレリックやウィザードがいて何の不思議もない…。
それはともかくリドリー達は最悪の場面に居合わせることになる。
悪の宰相プロフィオンの手の者が女王派の賢者を殺害し、レッドドラゴンを操る伝説の杖の在り処を聞き出そうとしている場面だ。
ここで旅の仲間となる見習い魔法使いマリーナと出会うのだが、眼鏡をかけていかにも勉強一筋と言う感じでなかなか可愛らしい。
師匠が最高レベルの魔法使いだから、見習いのマリーナも既にかなりの使い手だ。
ファイファンIVでラスボスのゼロムスを倒したパーティーに所属しているほどのパロムとポロムがエンディングでまだ修行が足りないと言われているわけで、戦闘での強さと魔法の学識は必ずしも比例しないものなのだろう。
(作劇上の都合と言ってはいけない)
ここで彼女が使った魔法がまずリドリー達を拘束した魔法のロープ。
これはマジックアイテムなのだろうか。
マリーナが移動すると自動的に引きずられるように移動を強いられるのがかなり便利そうだ。
一方で師匠を襲っていた賊どもを動けなくしたのは、その蜘蛛の糸のようなエフェクトから見て明らかにウェブの呪文だ。
これを使うときに袋から何かを取り出して撒くのがなかなかいい。
俺の乏しい知識では、クラシックD&Dでは特に魔法を使うのにアイテムがいるわけではないが、5eではクモの巣ひと欠片が必要だ。
この映画は独自の世界観を持ってるから別にどの版に準じる必要もないが、アイテムを奪われると魔法が使えなくした方がドラマとの相性は良い。
この後でも囚われの身から解放された直後で魔法を使えなかったマリーナが小袋を取り戻して魔法を使う場面があるが、何でもありより制約があったほうが話に起伏が出ていいというもんだ。
この映画の公開当時には5eはなかったけど、もしかしたらこの映画を含む様々な小説やリプレイなどのストーリー展開を参考に5eのルールが作られているのかもしれない。
魔法大学から路上に転移するのに使ったゲートもクラシックよりむしろ5eに近い呪文がある例だ。
クラッシックのディメンジョンドアもテレポートも目標は単体だ。
5eなら複数同時に運べる上に一定期間、空けておけるアーケインゲートがある。
もっとも6レベル召喚術となるとかなりの高レベル注文で、キャラクターレベルは11も必要だが。
さてこのゲートは自分の意思では閉められないようで、ここでドワーフのエルウッドが仲間になる。
追いかけてきたプロフィオンの手先、ダモダー隊長がその場にいたエルウッドに高圧的な態度をとり、作らなくても良い敵をわざわざ作ったのだ。
悪役たるものこうでなくてはならない。
エルウッドの機転で難を逃れた一行は酒場で今後の計画を練る。
ここがかなり唐突に見える。
冷静に考えると、すでに指名手配されている以上、ダモダーより先に杖を見つけ女王の危機を救わないと身の潔白を晴らせないわけだが、そういう葛藤とか話し合いがないものだから、一介の盗人がいきなり大義に目覚めたように見えてしまうのだ。
杖の在り処を教わるべく地図の中に入り込むのにその地図の中の冒険を全てカットしたのも手を抜きすぎだろうと言う気がする。
だが、この酒場のシーンのドワーフは見るべきものがある。
ドワーフにエルフ批判をさせるのは指輪物語系異世界の描写では鉄板だが、ここで下ネタを持ってきたのはなかなか応用が効きそうだ。
エルフの女に一目惚れしたスネイルに、エルフの女なんかガリガリでどこがいいんだと悪態をつき、小柄で肉付きの良いドワーフ女の良さを語るエルウッド。
髭にしがみついてこう!な?と腰を振るのだが、実際の酒場でもこういう下ネタはガンガン言われてると思うので、TR PGのセッションでも使っていきたいところだ。
杖を手に入れるための宝石、ドラゴンの瞳を手に入るため盗賊ギルドを訪れる一行。
盗賊ギルドの本部の中にあるダンジョンの奥にある、といういかにもゲームゲームしたシチュエーション。
だが、盗賊たちがそれを部外者にやらせて賭けとして楽しんでいるという如何にもなチンピラっぷりが、意外とリアリティを与えている。
もちろん手に入れても渡してくれる気は最初からない。
ここらへんはリドリーが勇気と抜け目なさを持っていることのアピールポイントで、これから後どんどん活躍していくことに無理がないようにしているのだろう。
ドラゴンの瞳は乱入してきたダモダー隊長に奪われてしまう。
それを奪還すべく砦に潜入するのだが、ちょい役で砦を巡回するビホルダーの造形がチープで悲しい。
凶悪なモンスターがコミカルに見えるのが悲しいのだ。
カプコンの格闘ゲームで、原作では物静かで知的な賢者の一族だったマグパがコミカルな媚びキャラになっていた時と同じ悲しさだ。
ただ監督がD&Dの熱烈なファンだったことを思うと、なんとしてもビホルダーを出したい気持ちもわからなくはない。
砦の戦いを経て手傷を負ったリドリーはエルフのクリックから、クラシックならキュアシリアスウーンズ、5eならキュアウーンズ2LV相当と思われる回復呪文をかけられる。
レベルに特に根拠はなく勝手な想像だ。
まあ、回復魔法に関しては、ゲームと小説や映画の乖離が大きくならざるを得ないので、ここはこだわってもしょうがない。
頻繁に怪我を負って頻繁に回復するなんて、実際の映像にするとグロテスクこの上ないから。
エルフは呪文を唱えずに魔法を使える、という設定は5eではなくなっている。
バランス取りにくいもんね。
でも物語との相性が抜群にいいんだよね。
いつか復活すると良いと思う。
だが、ここまで苦労して結局、杖は奪われてしまう。
取り戻すべく王都に突入だ。
王都では女王に操られたドラゴン軍団が評議会を襲う。
評議会全員に有言無言の不信任を突きつけられたのに平気な態度だったのはこれが理由か。
これほどの強力な力を持っていたから平等とか革命とか言えたのかと思うと、もともとない女王への感情移入がますますしぼんでゆく。
自分の気に入らない平民にもドラゴンけしかけるんじゃないだろうな。
評議員たちは一斉にファイアボールを撃つがドラゴンには全く当たらない。
このファイアボールがクラシックの矢のように飛んでいって爆発するタイプでないのにはちょっとがっかり。
これまでのレビューでわかるとおり、オリジナル世界なんだから設定や描写が多少違っていてもあまりうるさいこと言いたくないんだけど、D&Dを象徴する魔法であるファイアボールくらいはゲーム準拠であって欲しかった。
ドラゴンブレスの反撃。
これもファイアボールタイプ。
…まぁ当時のCGでは仕方なかったんだろうなぁ。
評議員たちは逃げ惑うばかりで、宰相がバリアらしきものを張っても焼け石に水。
しかし杖が届けられ形成は逆転、レッドドラゴンの群れが現れドラゴン対ドラゴン。
この膠着状態の打破には直接プロフィオン宰相を倒して杖を奪う必要があるのでした。
ここでリドリー自身はともかく他の仲間が塔に潜入できた理由が全くわからないんだけど、この際、気にしないでおく。
あくまで1対1で決着をつけ、他の仲間はあまり介入しないから、気にしなくてもいいわけだ。
プロフィオン宰相が巧みな杖捌きでリドリーの斬劇をさばいていくのはいかにも昔のD&Dと言う感じで好感が持てた。
5eにはないからね。
その反面、魔法をもっと使って欲しかったと言うのはある。
いきなり接近戦に持ち込まれたから魔法どころではないって言う理由はわかるけど、ラスボスが魔法使いである理由がないじゃん。
庶民に魔法を使う描写は全くなかったから、もしかして貴族たちは庶民に魔法を使わないと決めてるのかもしれないね。
というわけで突っ込みどころはあれど、そんなに酷評するほどとは思えない本作。
D&D経験者が個々のシーンやシチュエーションで楽しめるところはあるんじゃないかと思う。

2018年5月 5日 (土)

アベンジャーズ/インフィニティー・ウォー

凄い映画でした。
しかし面白いかどうかよくわかりませんでした。
旧エヴァ劇場版で魂のルフランが流れてる時と同じで、引きは本当に見事でこれは確実に次を見に行くんですが、その一方でどうにも収まりが悪くて。
それに、世界再構築系の粛清って、同じ理屈の逆回転でどうせみんな蘇るんだろ?って思っちゃうから、アヴェンジャー全滅?とか言われてもそんなにピンチにも思えないんですよね。
実際どうなるかわかりませんけど。
ファイファンVの「無」とかどうしても頭に浮かんじゃって。
ただ、他の多くのアメコミ映画の知識があるとより楽しめるという部分については、概ね満足しています。
敷居が高いと言って批判する人もいるけど、もともとそういう映画だと分かって観に行くわけでね。
大好きなドクターストレンジとその次ぐらいに好きなブラックパンサーどっちも大活躍なんで、うまく収まってくれて満足。
その一方でアイアンマンとマイティーソーはいまいち。
アイアンマンにせよマイティーソーにせよ、それぞれの単独映画って、共演ヒーローはいるにせよ彼ら中心に世界を守っている感じがすごくしているから、実は局地戦でしたみたいに言われるのが何か釈然としないんですよね。
マイティーソーのラグナロク(邦題「バトルロイヤル」)で失われたハンマーが戻ってくるわけですが、マイティーソーの単独映画で戻ってきて欲しかったですもん。
それにヒーローがたくさんいるのはいいんですが、熱愛カップル率が高すぎて、ちょっと食傷気味です。
付き合い始めてから時間が経って落ちついてるカップルならいくらいてもいいんですが、スターク社長からして結婚間近だし、その他にも絶頂期がぞろぞろ。どのカップルを一番、応援していんだかわからず気が散って困ります。
ものすごく丁寧にこれまでの伏線を拾ってきて、個別ヒーローのシーンも大迫力。
長年のシリーズファンも単独の観客もどっちも楽しませる大ボリュームの映画なのは確かですが、情報量が多くて1度の鑑賞ではよくわからないかもしれませんね。

エンドロール後エピソード あり

公式サイト
http://cpn.disney.co.jp/avengers-iw/

2018年4月25日 (水)

レディ・プレイヤー1

古い葡萄酒を新しい皮袋に!
ん?古いだって?
いやいや古いと言っても相対的に。
ゲーム内世界を舞台とした作品は近年たくさん作られている。
そこに満を持して真打ちが登場という意味。
とは言えゲーム内世界と現実世界の同時に攻防が発生する作品は意外と少ない筈。
ゲーム内で本当に死ぬタイプが一世を風靡したし、俺自身もそのタイプの中に好きな作品も多いけど、どうしても殺伐としちゃうしそろそろ飽きが来ていた。
だから、ゲーム内で憧れのキャラになりたい憧れのメカに乗りたい、そのシンプルな喜びを実現させたゲーム空間「オアシス」は古いと同時に新しい。
素敵なレトロフューチャー。
ゲームである前におもちゃ、アニメである前にテレビ漫画。
無心に遊ぼうぜと言われてるように感じる。
…乗った!
そのゲーム内では死なないことによる緊張感の減少を、現実世界の肉体の危機と言う要素は10分すぎるほど補っている。
そうやって実現した王道。
日米サブカルチャーをなめつくすが如く豪華なキャラクター群。
ネタバレを避けたいから何が出ているかは一切、書かないかないけど、マニアとして自分を鎧で守る前の自分、こんなキャラも!こんなメカも!という楽しみをこれでもかと与えてくれるのだ。
さて、この映画でスピルバーグはゲームは果たしてシミュレーターなのか、という問題に彼なりの回答を与えている。
確かにシミュレーターの要素はある。
特に昨今の3Dゲームはどんどん「リアル」になり没入感を増している。
それが「よくわかっていない連中」からの「ゲームと現実は違う」という、まるでわれわれゲーマーがゲームと現実の区別をつけていないかのようなイチャモンにつながっている。
しかし、たいていの人間はゲームをプレイしながら、ゲームをプレイしてる自分の行為とゲーム内の操作キャラクターがどう相互に影響しあってしているか意識せずにはいられない。
のめりこみながら(いい意味で)さめている。
没入と客観視が入り混じっている。
照れながらハイテンション。
その感覚を、この映画のゲーム内世界と現実世界の行ったり来たりは見事に描いてくれている!
だから単純にいろんなキャラのいるお祭り映画としても楽しめるし、これからもゲーマーであり続ける上での無理解者に対する理論武装の道具にもなってくれるのだ。

エンドロール後エピソード なし

公式サイト
http://wwws.warnerbros.co.jp/readyplayerone/sp/

2018年4月14日 (土)

名探偵コナン ゼロの執行人

…これ、実写で作り直しませんかw
わりと本格的な内容で面白かったです。
惜しむらくは、検察や公安周辺の力関係がセリフで語られちゃってるんで、真犯人の動機が実体験に基づいた地に足のついたものに感じられず、頭の中で組み立てたものに思えてしまうこと。
でも設定からすると、それとは正反対の人なんだよね。
このチグハグさは実写だったら俳優に背中で語らせることで糊塗できるから、そもそもがアニメ向きの脚本じゃないんだと思う。
もともと劇場版が好きな理由として、テレビでやってるコナンは時々、明らかに尺の足りないことがあるけど、劇場版はそれがないってのがある。
その劇場版のメリットを要所要所の説明的なセリフは奪っているわけで、だからこそ実写の方がって考えてしまった。
今回はもう一つ気になった点が。
毛利小五郎に罪を着せた理由。
これ、工藤新一だったら、いっぱつ殴ってた筈で、そのほうがカタルシスもあるし収まりもいい。
でもコナンくんだからそれはできない。
物理的に、じゃなくて、鋭い人には正体がバレちゃうからと言うメタ的な理由で。
だから骨格となるメインストーリーについては面白いししっかりしてるんだけれども、色々と惜しいんだよなぁ。
その反面、枝葉となる部分はいつも通り面白いです。
安室と言えばカーチェイス。
一昔前だったら、やり過ぎだとかばかばかしいとか思ってたんだろうけど、今やハリウッド映画のCG多用カーチェイスがよりやり過ぎ感が大きいもんですから、ああいうのが基準になっちゃって、何かリアリティーのあるシーンに見えてしまうw
ワンマンアーミーならぬワンマン公安とでも言うべき安室透は主役を食ってしまいかねないスーパーマンなんで、実質的なダブル主人公でしたね。

エンドロール後エピソード あり

公式サイト
http://d-conan.jp/movie22

2018年4月 9日 (月)

ジュマンジ ウェルカム・トゥ・ジャングル

前作が単にゲーム内の世界が舞台と言うにとどまらず、メタフィクションとしての楽しみも追求していたのに対し、今回はシンプルな「往きて還りし物語」となっていました。
ゲーム内世界メタフィクションがここ20年で当たり前のものとなっていたから、今さらそれをやってもてなわけで王道異世界アドベンチャーをやるってのは正解なんだろうけど、王道すぎてこれといったものはなかった。
今回は吹き替え版で観た。
今風の高校生言葉を意識した上での和訳はどこかとんちんかん。
予告編の「マジジュマンジ!」連呼時点でかなりいらっとさせられたし、
実体のない流行語として批判のあった「神ってる」が出てきた時は頭を抱えた。
でもまぁ和訳の完成度は兎も角、90年代と現代それぞれの若者言葉を対比させることに作劇上の意味があるのだから、仕方ないんだろうなぁ。

エンドロール後エピソード なし

公式サイト
http://www.jumanji.jp/sp/

2018年4月 6日 (金)

精霊カフェ

チャイナ版アウターゾーンのような話。
夕張の映画祭で観てきました。
貧しい結婚式に腹を立て結婚式場から逃げ出す花嫁の文燕。
北京の結婚式の相場は知らないが、中華料理屋で式を挙げ、遊園地の子供用機関車のような車でパレードするのは相当に…よく言えば素朴、悪く言えばみみっちいのだろう。
そんな彼女が北京の裏町、胡洞の隠れ家的バー「精霊カフェ」に迷い込み、散々、愚痴をこぼして、美貌のバーテンダーの作る怪しげな魔法のカクテルを飲むことで、彼女は世にも不思議な体験をすることに。
こういう話だと邦画だったら完全なハッピーエンドにするところだが、そう単純にはいかないところが面白い。
このわがままな花嫁にも同情すべき点はある、とつい俺なんかは考えてしまうのだが、大陸の思考パターンは違うようで、彼女に注がれる制作サイドの視線の厳しいことと言ったら!
しかも、物語が進むにつれて、新郎の譚術が如何にいい人かが、回想シーンや文燕に秘密にしていた事実等を交えて、これでもかこれでもかと描かれる。
あまりにも満漢全席のようないい人要素のスコールに、途中から変な笑いが。
だって、花婿がいい人であればあるほど、花嫁の理不尽さが強調されて、ヒシヒシとやな予感しかしないw
結末は皮肉もいいところで、喜んでいいんだか悲しんでいいのか、狐につままれたってのはこういうこと言うんでしょうね。
いかにもシリーズものの中の1エピソードという感じなのに続編は絶対にないような落とし方をしてるのも、この不思議な感覚の一部なのかもしれない。

公式サイト…はないので、
夕張の映画祭のサイト
http://yubarifanta.com/films/4481/

2018年4月 5日 (木)

ナナちゃんOh mein GOTTしよ

なんか食べながら観ちゃいかんよ。
わたしは夕張の映画祭で観てきました。
「パンツの穴」系統の「明るいスケベ」映画。
しかし、扱う題材は…
繰り返しますが、なんか食べながら観ちゃいかんよ。
苔の一念、岩をも通すというか、中高生のうちだけですよね、大声で「やりてー!」って言っても馬鹿な奴だなぁ程度で許されるのは。
でも俺も含めて大半の人は、若い頃でもそんな事は恥ずかしくてできなかったのでは?
で、まぁそれでも、若い頃に戻れたら大声で叫びたいとも思わないんだけど、どことなく羨ましくもある。
何か食べながら観ちゃいけない渾身の演技からは、そんなことが伝わってきます。
男に好きと言われて嬉しくない女はいないと言われますが、そんなことないですよね実際はw
しかし、そのファンタジーを真っ正面から描いています。
何か食べながら観ちゃいけない主人公を描くことで。
何か食べながら観ちゃいけない、って何回、書いたっけ?
ギリギリ、ネタバレになってないよね?
愛の告白ってギリギリのラインでなりたってるところがあるけど、双方ともにギリギリのラインを超えてれば、逆にお互いにはなれられない気がするw

公式サイトはないので、ゆうばり映画祭のサイト
http://yubarifanta.com/films/4478/

2018年4月 3日 (火)

リメンバー・ミー

ミュージシャンになりたい少年・ミゲルと反対する家族。
…と言うと邦画なら少年の意志こそ絶対正義、邪魔するものは親でも悪!みたいな作劇になるのが通例だが、この映画の舞台はメキシコ。
少年にとっては家族も大切だ。
家族が音楽を嫌う理由は遠くご先祖様からの因縁にある。
ふとしたことから死者の国でご先祖様に出会ったミゲルは、それら全てと向き合うことになるのだが…。
メキシコ人の死生観、それを踏まえた家族の在り方が、懐かしさと目新しさのハーモニーを奏でて我々を魅了する。
昨年の「モアナ」も舞台となる南洋の神話がとても目新しく、未知の体験への驚きに満ちていたが、このRemember Meも見るもの全てがワクワクでいっぱいだ。
ファンタジーが中世ヨーロッパ騎士と魔法使いフォーマットに則ったものだけでは面白くない。
きらびやかで音楽に満ちた、しかしすぐそこに悲しみの影が忍び寄っている死者の国のイメージは、これぞ「幻想と言う意味の」ファンタジーと断言できよう。
とは言え日本人にも理解しやすい世界観ではある。
本邦でもお盆にご先祖様は帰ってくるし、誰も覚えていなくなった時に人は本当に死ぬ、という考え方は人が自分の人生の意味を考えるときにその大黒柱として自分を支えてくれる。
それにしてもなんと誠実に死と向き合っていることか。
日本で死者の国を扱った子供向けの映画で、主人公の少年少女が閻魔大王その他諸々に涙ながらにお願いすると死者が甦るパターンがあるが、俺はガキの頃からそれが子供だましに思えて実に嫌だった。今でも嫌である。
それと比べて、冷厳たる事実があってだからこそその中で精一杯の喜びも悲しみもあるのだと言ってくれるこの世界観は厳しくも優しい。
死者は自分たちを縛る。
しかし優しく見守ってもくれるのだ。

エンドロール後エピソード なし

公式サイト
https://www.disney.co.jp/movie/remember-me.html

2018年3月28日 (水)

穴を掘る

夕張の映画祭で観てきました。
これ大好き。
圧倒的な実在感と説得力。
ただ大勢の男達が篝火に照らされながら穴を掘るだけなんですよね。
台詞もない。
そのうち2人の男が対峙し、ひたすら穴を掘る。
やがて片方が力尽き、もう片方は勝利の実感を得る。
ルールはない。
判定もない。
しかし、その場にいる誰もが誰が勝者かを知っている。
もちろん、その「場」を共有した者達以外に意味はないのだろう。
だが、だからこそ、プリミティブな闘争たり得る。
スポーツがスポイルしてしまっている原始的な闘争に魅入られた男達の姿に共感を覚える人も多いのではないだろうか。
スコップや鶴嘴の音がリズミカルに響く「祭り」の様子にもトリップ感がある。
それはそうと、主人公は普段は普通の会社員でひたすらパソコンに向かっているけど、こんなワイシャツの上からでも分かるガチムチマッチョなサラリーマンがいたら、同僚の女の子が放っておかないよねw
某小野田坂道くんが、実際にはかなりの細マッチョな筈、ってのと同じで。

公式サイト…はないので、
夕張の映画祭のサイト

http://yubarifanta.com/films/4474/