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2017年11月28日 (火)

沈黙 サイレンス

キリシタン迫害を描いた今年頭の話題作。
迫害する側とされる側、どちらも目力というか信念が伝わってきて迫真。
こういう「画」は本当は映画館で観たかったけど、まぁレンタルで仕方ないね。
俺は無宗教だけど、こういう映画を見る時はキリシタンの立場に立って観ることになる。
そうすると、キリシタン視点では当時の日本社会は相当に押し付けがましい。
我々の歴史観ではキリシタンこそ押し付けがましい連中の最たるものではあるんだけど、逆の視点だとそうなる。
宗教の特徴は何でも自分達に都合よく考えることにある。
「なるほどお前はそういう風に考えるのか。だがお前のそういう風な考えも我々の考えで説明できるのだ」
これで相手を取り込む。
もちろん相手は納得するはずがないのだが、こっちが強ければ無理やりに納得させる必要すらなく、相手の反発や不服従さえ自分たちのルールで解釈してしまえばいい。
これを主人公の宣教師やその師匠は「沼」と称しているけど、別に日本特有でも何でもなく、これはお互い様なんだね。
そのことに気づかない独善も、また宗教の特色であるわけで。
ただ、宗教が独善的なのは、宗教が安心を与えるためのものですなわち無謬でなくてはならないからなわけで、日本に限らず当時の社会は宗教という「根拠のない自信、安心」に簡単に付け込まれるような(現在に比べたら、だけど)完成度の低いものだったから、独善的な部分も含めて宗教は必要だったわけだ。
といったようなことを俺はぼんやり考えていたし、主人公の宣教師も(まあ、内容なり過程や結論は別だろうけど)独房の中で自問自答してたんだろうけれども、まさにこの自問自答こそが「神との対話」なんだろう。
沈黙していると思っていた神はいつもそこにいて自分の声を聞いていた。
だから宣教師は日本の代官に屈服し、棄教に至った。
神がそこにいるという絶対の安心の前には、型式などささいなことだ。
人は誰しも安心を得て、次に安心を与える側になる。
彼がたどりついた「神」は、自分たちの宗教も日本の宗教も大きく包み込むものだけど、こうなると神の話なのか人間の話なのかわかんないね。
だからこそ宗教に関心のない人間にとっても心を打つんだけど。
それにしても窪塚はいつもうまいなぁ。
ねずみ男がいてこその鬼太郎なわけです。

公式サイト
http://chinmoku.jp

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