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2014年1月

2014年1月31日 (金)

算数と阿吽の呼吸

昨晩はREGZAのハードディスクに残っていた1年以上前の「テストの花道」を観ていた。
BENBUメンバーにフォーゼや猫ヶ谷に出ていた清水富美加がいたので少なくとも1年以上は前だろう。
このNHKの高校生向け受験対策番組である同番組は、大人にとっても役に立つ内容で、わりとよく観ている。
番組のキャッチフレーズである「人間は『考え方』を手に入れた途端に頭がよくなる生き物である。君にできない筈はない」によく表れているように、番組で紹介されているものの考え方は仕事で色々なことを覚えなければならない大人にも十分に有効だからだ。
というわけで、ハードディスクの整理を兼ねて古いファイルを漫然と視聴していたのだが、ちと看過ならぬ設問と回答が。
以下、その設問。

2階建てバスに乗って街を観光中。
あなたは、お客の数をバスガイドに尋ねました。
すると、
「1階には25人、2階には1階の乗客の40%の人数が乗っている」と言います。
さて、バスには何人、乗っているでしょう?

次いでその回答。

答えは35人ではなく37人である、何故なら1階には運転手とバスガイドも乗っているから。

どうにも釈然としない。
…34人じゃないのか?
だって、番組で解説されていたように25人×0.4=10人を25人に足して更に運転手とバスガイドの人数を加えるのではなく、そもそも2階の人数の求め方は「乗客の」4割なのだから23人×0.4でイコール9.2人。四捨五入して9人だ。
そうなると23+9+2で34人ではないか。
いや、もちろん分かっている。
問題文にある「25人」を俺は乗客23人+運転手とバスガイドの2人と捉えたが、この文脈では乗客の数と考えた方が素直であるということくらい。
問題の趣旨は運転手とバスガイドの人数のカウントを失念しないことにあるのだから、実際の計算で小数点以下の積が発生するようになっている筈がなく(ここ重要!)、そこから逆算して25人もまた特に明記してなくても乗客の数と捉えるのが妥当ということだろう。
そう、これはまさに設問者の意図を読み取り、その欲する答えを出す問題なのであって、設問の不備に気づかないふりもしてあげる阿吽の呼吸すら求められる極めて実戦的な問題!
社会に出て求められる人材は37人と答える部下であって、上司のミスを論うように34人と答えるようでは嫌がられる。
拠ってやはり回答は37人なのだということくらい俺も分かってはいるのだ。
しかし、やっぱり納得いかん!
算数の問題でありながら提示されている条件がファジーなのが実に気持ち悪いのだ。
ここを納得できるかできないかで、その人の人生は大きく変わっていくような気が…流石にしないけどねw

2014年1月30日 (木)

クリープ現象

ニュースでクリープ現象の説明をしていて耳を疑いました。
もちろん、例の事件の関連だってことは分かります。
しかし、こんな知ってて当たり前のことの説明がなんで必要なのか。
もしかして知らずに運転している人が?
…いやいや流石にこれはクルマを運転したことのないヒト向けなのだろうと自分に言い聞かせますが、どうにも納得がいかない。
殆ど全ての運転免許所持者はクリープ現象を知らないなんてあり得ないだろうけど、1000人なり10000人なりに1人でもそういう人がいるのではないか。
もしそうだとしたら、なんと恐ろしいことだ。
思えばマニュアルで運転を始めたわれわれの世代は、オートマに移行する時にマニュアル車とはどこがどう違うのか、意識して頭に叩き込んだものです。
ましてやここ北海道は積雪地帯ですから、冬場にエンジンブレーキが効き難いことと併せて嫌でもオートマ車の特性が頭に入ります。
しかし、最初からオートマでマニュアル車なんか運転したことがない世代が既に多いことを思うと、その中には僅かながらクリープ現象を知らない人がいても不思議ではない。
「知ってて当たり前のこと」は必ずしもそうではなく、そう思っているのは自分だけかもしれない。
つくづく「当たり前」の怖さを感じました。

2014年1月29日 (水)

プレイ感覚を変えた続編

エスカトス(360)をやってると、たまに真・女神転生II(SFC)のことを思い出す。
エスカトスも前作的存在のジャッジメントシルバーソード(WS)も、ワイドショットと直線ショットを使い分けるシューティングだ。
しかし、ジャッジメントシルバーソードこと銀剣が普段はワイドショットを使い必要に応じて直線ショットに切り替えるゲームなのに対し、エスカトスはその逆にメインは直線ショットで場面場面でワイドショットに切り替えるバランスであり、そのプレイ感覚は似て非なるものだ。
真・女神転生のIとIIの関係も同じで、ガンがメインでサブがソードのIに対してIIが逆。
どちらも世界観を維持しながらマンネリにならないようにという考えの元、そのようなバランスとしているのだろう。
世界観というのは、武器やアイテムも含めて世界観だ。
その一方でゲームはあまり前作と同じだと飽きられる。
その最適解としてこのような方法を採ったエスカトスと真・女神転生IIを、俺はとても素晴らしいと思うのだ。
例えばドラクエのIIIとIVは魔法体系が殆ど全く同じだ。
これは世界観を重視する向きからすると嬉しいことだが、その反面、IVでは新しい魔法を使う時の感動があまりなくて、そこが残念だ。
しかし、どちらか片方をメラに弱いモンスターを多めに、もう片方をヒャドに弱いモンスターを多めにすればプレイ感覚を大きく変えることができただろう。
大量の新アイテムや魔法、というやり方で新作を作る方法は今だ多い。
だが、把握できないほど大量の武器や魔法に何の意味があろう。
実際のプレイ感覚をどう変えるか、といった視点で続編を作ってくれた方が俺は嬉しい。

2014年1月28日 (火)

ガンダムビルドファイターズ第16話「再開、父よ?」

冒頭の夢オチがテム・レイを暗示する伏線じゃなくて本当によかった。
伏線のフリをしたミスリーディングですね。
ガンダムビルドファイターズ第16話「再開、父よ?」。
やっと行方不明だったセイの父親イオリタケシの活躍が描かれました。
ガンプラ捜査官。
ゲームセンターあらしの父が国際捜査官だったことへのオマージュでしょうか。
…ということはリンコさんの必殺技もあらしの母ちゃんと同じ?
なんてことは流石にないとして。
仕事と遊びを同時進行させてどっちもパーフェクト。
物凄く楽しそうな人生なんですが、この人、スーパーマンすぎるでしょ。
美人の奥さん放ったらかしてガンプラ布教の世界行脚。
まるで早乙女玄馬だな、と思っていましたが、なんかリンコさんと四六時中は一緒にいたくない理由でもあるんでしょうか。
まぁ、夫婦のことですから余人には窺い知れないものがあるのでしょうが、要するに2人とも自由人なのでしょうね。
そんなお父さんの影ながらの活躍で、ガンプラマフィアのCさんは二度とセイとレイジを狙うことができなくなりました。
Cさん操るスカートの裾から触手…じゃなくてクロー付き隠してない腕をニョキニョキさせるジオングが、「あんなの飾りで…じゃないわけか!」的なツッコミを視聴者にさせたい意図剥き出しでレイジの初制作ガンプラであるビギニングガンダムに襲いかかってきます。
RX78使いとして対ジオングはお手の物のイオリタケシですが、それだけに変速的な隠してない腕のことを失念してレイジに詰めの甘い助言をしてしまうところも、そのピンチを見てられないとばかりにコマンドガンダムで乱入するアイラも、キャラが勝手に動いてる感じで実にいいですね。
しかし、お父さんまでいい人キャラになってしまって、せっかくの越えるべき高い壁が壁に思えなくなりかねないのは気になるなあ。
とは言え、もうここまで作品の雰囲気が固まってしまったら、シリアスな悪人キャラは出せないのかも知れないし難しいところです。

2014年1月27日 (月)

オーガスでようがす?その6「エマーンがティターンズに与えた影響」

超時空世紀オーガスについてややネガティブな視線から語る不定期コラムの6回目。
今回はオーガスの先進的な試みの失敗が後に与えた影響について考察してみたい。
まぁ、タイトルから既にバレているわけだが、「後」というのはΖガンダムのことだ。
Ζガンダムを見て誰もが最初に思うこと。
「ティターンズは連邦軍の一部で、かつ反ジオン感情の強い組織なのに、なぜジオン系のモビルスーツを使うのか」
「まるで兵器体系なんかどうでもよくて、単に味方側系、敵側系のラインしか存在しないみたいだなあ」
で、これについては、視聴者が敵味方の区別がつきやすいように敢えてそうしたというスタッフのコメントをどっかで読んだので、ああやっぱりそうだったのかと納得したわけだが、ファースト以外のガンダムシリーズが下手をしたらストーリーよりも兵器体系を楽しむものである以上、それでよかったのかなぁ、と思わなくもない。
ティターンズの連中が例えジオンのメカであれよいものはよいと認めるだけの心の広さを持っているなんて、やっぱりおかしい。
ここで話がオーガスに戻るのだが、このΖガンダムの決断は、その前年のオーガスの失敗を意識した部分が多分にあるのではないか、と俺は思うのだ。
オーガスはΖガンダム同様に、前作の味方側陣営が今度は敵側であるというストーリーだ。
そのため、主役側が直線系のメカ、敵側が曲線系のメカという通常のセオリーを逆転させ、オーガスが曲線メカ、イシュキックやナイキックは直線メカとした。
これは世界設定から導き出される解としては正しい。
しかし、結果として主役機のオーガスは格好いいと思って貰えず、敵側のナイキックの方が人気があるという有様。
このことがΖガンダム製作陣の脳裏を掠めなかった筈がないと思うのだ。
曲線系でありながら格好いいダンバインの例もあったのだから、別に曲線系が悪いわけじゃないと思うんだが、流石にオーガスとΖガンダムは放送時期が近すぎたのだろう。
そして後のエルガーゾルンにせよヴァジュラにせよ曲線系なのも、オーガスの失敗が尾を引いているに違いない。
いつか、味方が曲線、敵が直線のリアルロボットアニメの名作が登場した時、オーガスの仇が取れた、と思うんだろうなぁ。

2014年1月26日 (日)

中断のあるなし

イオンで一昨日から今日までイタリアフェアをやっていた。
なんという偶然!
と言うのも僕は「DSお料理ナビまるごと帝国ホテル」を起動したDSを片手に、「ルッコラとハムのピッツァ」に必要な材料を物色していたのだ。
そして、外国の料理を作る時にありがちな、このルッコラとかパルミジャーノ・レッジャーノとか、そもそも売ってるのか?という悩みを抱え、ざっと見て店頭になかったらipadで「ルッコラ 代用」で検索でもするつもりでいた。
それが店内のあちこちでイタリアフェアということでイタリアからの輸入食材が売っているものだから、もしやと思ったところ、どちらもちゃんと入手できたのでありました。
やるな、イオン。
今は生地を冷蔵庫の中で寝かせているところだから上手く焼けるか分からないが、料理は要するに化学反応だし、食材も分量もトコトン正確にやればそうそう失敗はしない筈だ。
それにしても今回はたまたま入手できたからいいが、何時もこういうわけにはいかない。
ハイソ(死語)な地域のスーパーとかデパ地下が近くにあるならいいが、あいにくここは地方都市だ。
だから、前にも書いたようにDSお料理ナビには各食材ごとに代用品のリストでもあるといいなぁ、と思う。
そして、最近さらに気になる点が。
このソフト、なんと中断機能がない。
生地を寝かせている8時間の間はやることがない。
だから、ひとまず中断して、3DS本体は別のことに使いたいし、8時間が経過したらあらためて再開しピッツァづくりの続きと洒落込みたいのに、できないのだ。
確か任天堂製の無印と世界のごはんは中断と再開ができた筈だから、またしても任天堂製ソフトとコーエー製ソフトのつくりの丁寧さの違いがあったのかという感じだ。
お料理ナビが出てから5年くらい経つし、ユーザーの立場からの改良点も既に出揃っていることと思う。
それらを反映した3DS版が出ないものかなぁ。
別に3DSならではの要素なんて要らないんだし。

2014年1月25日 (土)

永遠の0

真珠湾攻撃の是非は取り敢えず置いておくとして。
いざ戦争が始まってしまったら、個別の戦闘においては敵の不意を突くことこそ肝要だ。
準備のできていない敵の軍勢を叩き相手が態勢を立て直したら即座に退く。
すなわちヒットアンドアウェイ。
それを繰り返すことができたら最高で、そこを徹底しているのがゲリラだ。
しかしゲリラはどうせ敵に大打撃を与えられない小兵力だから比較的に高い確率で即座に姿をくらますことができるが、正規軍ともなるとそうはいかない。
だから乱戦となる。
これを踏まえると宮部と景浦の関係にも深みが出てくる。
「永遠の0」を観てきた。
凄腕の零戦パイロット・宮部の戦時中にあっても命を大切にする生き方と、それでも特攻隊に志願するに至ったその心の移り変わりを咀嚼し自分なりの回答を見つけるのが、この映画を観る最大のポイントと言えるだろう。
宮部の「乱戦を嫌う」という考えは命を粗末にしないという意味で合理的ではある。
しかし、下で景浦達が乱戦をしてくれたからこそ、宮部はヒットアンドアウェイのアウェイの部分を貫けた。
さらには、もともと命のやりとりなんか誰もしたくないのだから、景浦を初めとするパイロット達が宮部を敵視するのは当然と言える。
ドラクエの「いのちをだいじに」はAIが必要に応じて攻撃もしてくれるからこそ、そして死に瀕した状況で「極めて客観的に戦況全体を把握できる」プレイヤーの手で発せられるからこそ有効たり得る。
全員が「個々の判断で」命を大事にしていたら結局は全員が危ないのだ。
とは言うものの、命を大事にしない発想が無駄な蛮勇に繋がることもまた多いのも事実。
士気の高揚と維持の問題もあるし、軍事目的が達成されなければ結局は何時まで経っても戦争は終わらないのだし、正解と言える匙加減はなかなか困難だ。そんなものはないのかも知れないし…。
なんとしても妻子の元に帰りたいと願ってきた宮部が特攻隊員に志願するに至ったのも、彼自身、何が正解か分からず煩悶していたからだと思う。
特攻で敵艦を沈めることが延いては有利な条件での終戦と妻子の幸福に繋がる…そんな風が吹けば桶屋が儲かるような理屈を宮部が本気で信じていた訳ではあるまいが、泥々の戦況で部下や教え子達が死んでいく中で追い詰められた彼が縋りつけるものはそれしかなかったのだろう。
信念に生きた人間が信念を曲げた時、その憔悴は如何ばかりのものか。
景浦が「かつての宮部ではなかった」と述懐するほどの変貌ぶり。
「図書館戦争」でも凛々しい指揮官を演じてきた岡田准一だけに、その落差は景浦と観客を一体化させるに足る痛々しさ、劇中でここが最も熱演だと感じた。
この宮部と景浦の関係は現代パートと戦中パートを往来するうち明らかになるのだが、彼等のみならず、このじいさんはあの人だったのか!という驚きが多いのもこの映画の魅力だ。
何気ない言葉に込められた重い事実が祖父のことを知りたいと思う孫の健太郎を徐々に男の顔にしていく過程もいい。
戦中を生きた男達の言葉には行間があった。
その行間のことをわれわれは「背中」と呼ぶのだろう。
健太郎が言葉の表層だけで生きている同級生と衝突する場面がある。
同級生は健太郎の祖父の特攻を知りながら、特攻をテロと同じだと無神経かつ半可通なことを言い健太郎を怒らせるのだ。
特攻という愚劣な作戦の、その愚劣たる部分は命じる側と命じられる側(遺族を含む)の関係性のみにおいて愚劣なのであって、特攻をする側とされる側には何の関係もない。
特攻で奇跡的に艦を沈めることができたとして、そこには軍事目的を達成できた側とそれを阻止できなかった側があるのみ。
テロで命を落とした無辜の市民は被害者だが、特攻で命を落とした双方は(それがどんな作戦によるものであれ)戦闘による死者なのだ。
そんな冷徹な現実を突きつけられる戦争。
決して繰り返してはならないという思いを強くさせられる映画だった。

2014年1月24日 (金)

脱成長だと!?

よくも脱成長なんて馬鹿なことが言えるな。
都知事戦なんて都民でもない自分には関係ないと思ってたが、こんな無神経なことを言う老ポエマーには我慢ならん。
腹が立って腹が立って腹が立って、腹が立っての右上に指数をつけることをゆるされるなら3桁にはなろうくらいはらわたが煮え繰り返っている。
なぜ「馬鹿なこと」なのかの説明はしない。
そんなことも分からない奴には何を言っても無駄だ。
久しぶりだ。
こんなに腹が立ったのは。
俺が尊敬するのは例え汚辱に塗れようとも自分と家族と友人を大切にする人間だ。
その対極にある唾棄すべき輩が政治を語る。
こんな腹立たしいことがあるか。
ポエムを詠みたいなら閑静な庵にでも篭っていろ。
関わるな!

2014年1月23日 (木)

グレーは白に

夜中に公園で泣いていた子供がいたが、不審者扱いを恐れて警察に電話だけしてその場を立ち去った男の件は色々と考えさせられるものがあった。
http://togetter.com/li/613824/comment
実際、このツイート自体は1/9のものなのに、今週に入って一般のネットニュースで取り上げられたこともあって、このまとめでもニュースサイトのコメント欄でも未だ議論が熱い。
大凡は、一方的に女の言い分だけを信じる社会にあっては当然の対応という大多数の声に、疑われるようなキモい雰囲気の男が悪いとフェミニストが暴論で応えるというものだ。
フェミニスト達が本当の女の敵である「女を食い物にする男達」を叩かず、叩きやすいおとなしい男ばかり叩いてきたことが彼女達が普通の男達から支持を得られない結果となっている現状をまざまざと見せつけられる議論の流れは実に然もありなんという感じだ。
しかしこんな自明の理について、今更、気の利いたことも言えないので、結果的に多くの人間を救うためにはどうすべきなのかに絞って考えてみた。
グレーの中には白も黒もあるだろう。
そして各グレーが白なのか黒なのか明らかにしていく過程で、白なのに黒とされてしまうケースもあれば逆に黒なのに白とされてしまうケースもあろう。
そこで全てのグレーを黒として扱えば被害者は100%救われる。実は白だった人を犠牲にして。
逆に全てのグレーを白として扱えば何もしていないのに疑われる人は100%いなくなる。実は黒だった人をみすみす逃して。
どちらも嫌だ、というのは尤もなハナシで、トコトンまでそのグレーは白なのか黒なのか検証するのが理想だ。
しかし、トコトンをどこまでやれば万人の納得するところのトコトンなのかと言えばそんなことは不可能なわけで、何処かで落し所を見つけなければならない。
結局のところそれでも残った僅かなグレーに対して「無条件で」白にするか黒にするか、どちらが社会全体にとって有益なのか選ばなくてはならないのだ。
俺としてはグレーは白にするしかないと思う。
なるほど、それによって実際に被害を受けながらも救われない人が出てくるだろう。
だが、やってもいないことで罪を問われる人をゼロにすることの方が優先されると思うからだ。
結局、人間は各個人が強くなるしかない。

2014年1月22日 (水)

任天堂は愛すべきゲーム馬鹿だ

任天堂の業績の下方修正とやらでイキイキとバッシングに勤しむ輩にはほとほとウンザリだ。
例えば2人の映画好きが口論になり片方が「お前の好きな映画より俺の好きな映画の方が観客動員数が多いんだ!」と喚いたら馬鹿だと思われるだろう。
プロ野球やサッカーでも小説や漫画でも同じだ。
だがゲームではこれと同じことを恥ずかしげもなく堂々と主張する阿呆がわんさかいる。
子供ばかりではなく徒らに馬齢を重ねたおっさんでもそうだ。
そればかりか、そもそも消費者に限らず、ゲームを作ったりゲームについて報道したりする連中でさえ一部は醜い言葉で猛りその豊富な症例となっている。
本来なら、年若い消費者にそのような下品なことをやめよと糺すべき立場の人間が、やるべきことをやらずやるべきでないことをしている。
この惨状を思う時、俺は、ああ「ゲーム」はまだこんなところを這い回っているのかと、暗澹たる気持ちとなるのだった。
さて任天堂だ。
斬新なゲーム機とそれを生かしたゲームでユーザーを魅了する任天堂だ。
今やセガが捨てたセガイズムを継承しているのは、セガの好敵手であった任天堂のみだ。
俺がセガのゲームが大好きだったのはセガが愛すべきゲーム馬鹿だったからだ。
そして今、任天堂がセガの代わりにゲーム馬鹿をやってくれている。
セガの相手をするうちにセガの馬鹿が伝染ったのだろうか。
いいことだ。
若々しいセガスピリットを任天堂が受け継いでくれているとは、かつてのセガが好きでいつか任天堂を超えてほしいと思っていた俺からすると感無量だ。
だからDSやWiiや3DSの新たな挑戦とその実りある果実に大喜びしたし、WiiUのゲームパッドには、もっとそれを生かしたゲームがドンドン出てほしいと思っている。
ドリームキャストのビジュアルメモリを生かして各プレイヤー毎に隠されたデータを前提としたカルドセプトを出してほしいという俺の密かな願いは叶わなかった。
WiiUでならそれが実現できるかも知れない。
おそらくはもっと大きなことも。
だが、スーパーファミコンの6ボタンを前に、他機種への移植のことなど考えず、このボタン数を生かしたゲームを作りたいと熱く語っていたクリエイター達はもういない。
不景気はゲーム会社を保守的にし、一定のユーザーが確保できる確実性のあるゲームばかりにしてしまったからだ。
だが、ゲームが今のままでいい筈がない。
そのためにも任天堂には頑張ってほしいのだ。