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2011年12月

2011年12月31日 (土)

2011年12月30日 (金) 今日の鯨の囀り

極道めし(映画)

予想していたものとは違ったけど、これはこれでよかった。
と、素直に褒めないわけだけど、それは原作ファン向けではないな、と思ったから。
何故って、極道めしを構成する2つの要素、人情とバトル。
その人情面に重点が置かれ、バトルものとしての面白さには欠けている。
原作マンガでは、おせち争奪戦をバトルマンガとして盛り上げるためのいろいろな仕掛けがあったのだが、それがあまりない。
各キャラの勝つための心理戦とそれに伴う心の声、ただ美味しいだけでは駄目でそれをまざまざと想像させる要素に欠けると喉は鳴らせないこと、ここで喉を鳴らす訳にはいかないという抵抗など、実写で表現するには難しいのかも知れない。
また、各思い出のめしの美味しさが語りだけではなく映像の力に拠っているのも痛し痒し。
もちろん原作漫画でも、料理漫画の中でクッキングパパと双璧を成す美味しそうな絵で魅せてくれてはいたが、各キャラがその旨さを表現する形容詞の1つごとに細かくコマが割かれそれに対応する料理の断面、恍惚の表情が描かれることでとても情報量が大きかったことを思うと、原作のようなあくまで語りが主でそれを引き立たせることが目的の視覚要素というより映像が雄弁すぎるように感じてしまう。
まぁ、それを言ってしまうと、映画であること自体への批判になってしまうのだが。
ただ、その一方で、人情映画としてはオーソドックスだが楽しめるものとなっている。
感情を抑えきれないから彼らは檻の中にいるわけだが、それゆえに剥き出しのドラマがある。
ここに関しては、原作漫画からのアレンジが効果的だと思った。
囚人が他の囚人の娑婆での素行に感情的に反応し過ぎな感はあったものの、だからこそドラマが動いている。
ヒロインの木村文乃はかわいかったな。
でも、役柄を思うともっと下手な化粧をした方がいいと思うよ。

2011年12月30日 (金)

恋物語

読了。
野心的な作品だった。
ハーレムものに限らず、大半の娯楽作品は主要キャラは友達同士、同じ価値観を共有するもの同士であることが多い。
AとBが友達、BとCが友達であっても、AとCが友達であるとは限らないばかりか、むしろ不倶戴天の敵であることも少なくないという現実は描かれない。
それには、スムーズなストーリーの進行の邪魔であるとか、小さな箱庭を作った方が読者が作品世界を把握しやすいとか、所詮は作者の分身であるとか、各キャラについているファンを重視するタイプの作劇である場合とか、もうそれこそいろんな理由があって、多くの作家さんはやりたくてもやれないのだろうが、ラノベやジュブナイルなど多感な10代を主要な読者層とする場合、それを書く余地が生まれる。
それがこの作品だ。
物語シリーズは、ここのところずっと、語り手を変えると同じことでも全く違った見え方となるという方法論を取ってきたが、その集大成とも言える作品で、ラストを締めくくるに相応しい力作だ。
とは言え、力技だとは思う。
これまでわれわれは、通りすがりの吸血鬼に進んで命を差し出すほど自暴自棄になり学校にも家庭にも居場所がないはずの阿良々木暦がストーリーの都合で妹たちとフレンドリーになったり、素っ頓狂な言動が目立ちとても聡明には思えない羽川翼が何時の間にか聖女の如き存在になっていたり、それ相応の理由があって何事にも反応を示さなかった吸血鬼がただ何となく多弁な性格にシフトチェンジする様を見てきた。
だから今回、エキセントリックな醜態を晒した千石撫子も次の巻以降では、また大人しめな性格に戻るだろうことを期待できる。
だが、JOJOの山岸由花子のようにぶっ飛んだ描写をしてしまったので、今回のことは大きなしこりとして読者の中に残り、なかったことにしてもらえない可能性がある。
シリーズとしての整合性に不安が残る。
しかし、もうそれは慣れっこだ。
シリーズを通して俺は、読んでいてイライラさせられながらも感心するという体験をしてきた。
そして、面白ければ設定の変更くらいコロコロやるが、あとで強引につじつまを合わせてくるし、実際、瞬間の面白さが爆発することも多い(外すことも多いがw)エンターテイナーっぷりを知っている。
そう思って、千石撫子を今回限定の嫌なガキとして捉えると、なかなか空恐ろしい悪役で、主人公との心理戦が中だるみも含めて終盤に収束する様子に興奮できる。
人間ってやつは他人を嫌う理由は徹底的に捏ね上げて自分はわけもなく相手を嫌っているのではないという理論武装を欠かさないものだが、そのスタンスから千石撫子を捉えた各キャラの雑感も興味深い。
シリーズ通してヒロインがほとんど出てこないという不満も、ある程度は解消された。
阿良々木暦は何だかんだで戦場ヶ原ひたぎ一筋であるという両者の関係が好きだった俺にとって、ヒロインがモリアーティ教授並みにちょっぴりしか本筋に登場しないことは、本シリーズの大きな不満だったが、阿良々木の正義感を持て余し気味ながらも受け入れるヒロインとして描かれていたから終わり良ければすべて良しとしたい。

2011年12月29日 (木) 今日の鯨の囀り

2011年12月29日 (木)

やんわり催促たのしいな

3DSを毎日のように持ち歩いている方ならお分かりと思いますが、プレイの催促が来ますよね。
いや、実際の催促ではありませんが、すれ違い通信で他のプレイヤーの方のデータが届いて、それが最近やっていなかったゲームだったりすると、ああそろそろ再開するかという気持ちになる。
昨日もそれで助かりました。
ついついGBAアンバサダーを遊んでしまう中毒症状を呈していたわがゲームライフ。
まずいなぁ、このままではまた年末年始のマリオカートでは接待プレイを強いてしまうぞ、もっと練習しなきゃならないのに…。
そう思っていたところにやってきたマリオカート7のゴースト。
これは挑まずにはいられません。
結局、勝つことはできませんでしたが、それで火がついて他のモードも一通り遊んだので、何とか勘を取り戻したような気がします。
思うに、この仕様って、中古対策になってますよね。
RPGやADVのような解いたら終わりのゲームなら売ってしまえますが、解いてからが本番のゲームだと、こういうすれ違いが待ち遠しくてなかなか手放せない。
追加シナリオを出し惜しみするタイプよりよほど好感が持てます。
3DSの最大の魅力は立体視ではなくすれ違い通信であると前から思っていましたが、この年末でこんな田舎でさえ人数が増えてきたことで、ますますその思いを強くしているのでした。

2011年12月28日 (水) 今日の鯨の囀り

2011年12月28日 (水)

2011年12月27日 (火) 今日の鯨の囀り

「凛子をいちばん愛してる」

いやはや、またやってしまいました。
リセット凛子の逆鱗に触れてしまって、表題の台詞をマイクに向かって言うだけでは飽き足らず、愛してるを3回。
ブレーキランプ5回点滅×3。
それでやっとゆるしてもらえました。
割り切って遊ぶと面白くなくなることからリセットボタン厳禁のラブプラスプラス。
しかし、プラスには熱海旅行イベントが発生した時に旅行日程の都合がつかないとハマリ状態になるという、1人ヒロインプレイならいざ知らず3人ヒロインの時にはかなり確率の高い危険がありまして、そうならないように細心の注意を払ったつもりだったのですが、ついつい月曜3コマ目のイベントアイコンを、押してはいけないアイコンをタッチしてしまって、同じ間違いこれで何度目よと自分で自分にツッコミを入れる羽目に陥ったのでした。
これでまた凛子の気分が醒めてしまったわけで、2月のNewラブプラスまでに勲章を1つでも多く集めるという目論見はかなり危ういことになりそうです。
DSのラブプラスでの心残りはできるだけなくしておきたいのですが。
現在の勲章は3人ともに8レベル。
1月前には凛子と愛花が8レベルで寧々さんが7レベルでしたから、少しは前進しているのですが、やりこみ要素で出てくるものには10個の勲章が必要な壁紙や12個の勲章が必要な名刺があって、名刺はともかく壁紙はほしいし、10個くらいならギリギリ何とかなるのではと楽観的でしたから、こうまでスローペースだとは予想外。
3DS版がDS版の要素を全て内包するとは思えませんし、かと言ってNewを始めてしまったらDS版は気の向いた時に友達モードのイベントを回収するくらいしかやらなくなってしまう。
で、思うんです。
どうせ間に合わないなら、間に合うことだけやっておこうかな、と。
そして今から確実に間に合うのは、まだ発生させていない看病イベント。
さんざんっぱら何度も呼びつければそのうち風邪を引くので、そのお見舞いに行けるというのですが、何だかそんなことをわざとやるのは気が引けてたんですよね。
心を鬼にしてイベントを発生させるべきか、そんなことはやめるべきか。
ラブプラスでは幾度とすることになる自問自答を、わたしは今、しているのでした。
…でも、わざとそういうことをするのは、表題の台詞に偽りあり、だよなぁ。

2011年12月27日 (火)

「親しき仲にも」のボーダーライン

坂の上の雲を観終わった。
CGを駆使した迫力の砲撃戦に思わず戦艦三笠のプラモデルがほしくなってしまうが、どうしても大きいものを求めてしまうので住宅事情から断念。
いつか横須賀に行って記念艦を見てみたいものだ。
さて、内容の素晴らしさは言うまでもないから特に語らないが、枝葉で目立たない部分ではあるが漱石のあまり褒められない発言にとてもリアリティがある点が大いに気に入ったので言及しておきたい。
正岡子規亡き後も多くの文人たちが定期的に集まりを持った子規庵。
海戦の勝利について興奮気味の文人たちのところに遅れて現れた漱石もまた興奮気味であり、常になく多弁であった。
世間で大和魂が連呼される様子に、大和魂の持ち合わせの少ない自分などはついつい意地悪なことを言ってしまう。それは例えば…。
と話を続けようとする漱石を子規の妹である律は、海軍軍人として命がけで戦っている真之を馬鹿にしているように聞こえて不愉快だと窘め、漱石は調子に乗りすぎたことを詫びるといったシーンだ。
漱石も亡き子規も律も主人公・真之の大切な友人であり、また真之もかつて学問を志したことから、彼らのシーンは最終回には絶対に必要だ。
これを安易に描こうとすれば漱石にこう言わせればいい。
「淳さん(真之)のおかげでこうして仲間の文人たちと語らいの場を設けることができる。この平和は淳さんたち軍人のおかげだ。本当にありがとう」
これで誰の株も下がらず万々歳だ。
しかし、それはやや嘘くさい。
ドラマとしてのまとまりはいいが、テンプレートすぎる。
まず男の友達同士というのは対等の関係であり、己を恃むところの大きい者同士であればあるほど、素直には褒めにくい。
これは女同士ならお互いに可愛いと言い合うが男同士でおまえかっこいいないやきみこそとは言わないことからも明白だ。
男の友情には自尊心が必要なのだ。
でも今回の真之の武勲は巨大であり褒めかつ感謝せざるを得ないし、実際に感謝の気持ちもある。
そして、その場にいない真之は、自分の発言の裏にある真意を汲み取ってくれるはずだという気持ちも。
それが漱石の、やや「上擦った」発言となってしまったのだと俺は思う。
気のおけない友人同士でよくあることだが、ついつい分かってくれるはずだと調子に乗った発言をしてしまうもの。
俺自身にも反省すべき過去が色々とある。
だから、この一連のシーンを見て、漱石と真之は本当に仲のいい友人同士なんだなと思ったし、それを描くために安易な方法を取らない作劇に多いに感心したのだった。
長所というパーツを組み合わせるだけでは人間を描写したことにはならない。
坂の上の雲も、そのことをちゃんと分かった上で作られているドラマなのだと、あらためて理解したのだった。

2011年12月26日 (月) 今日の鯨の囀り