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2011年7月

2011年7月31日 (日)

モデルチェンジ

ここ数日、ネットの一部にはゲーム機が値下げになったことで何やら憤懣やる方ない様子の方もいるようで、ちょっと考えてみました。
個人的には、ゲーム機というのは提供されるサービスとセットであり、そのサービスにカネを払うのだから本体の原価がどうとかはまるで気になりません。
娯楽にはそれを産み出すためのマンパワーが何より重要だから、それがどのくらい発揮されているかが重要であるし、できたてのホヤホヤを楽しむ場合は、鮮度の高さに対する対価を払ってしかるべきでしょう。
しかし、例えば数日前に買ったばかりという人の気持ちも分からないわけではない。
とは言え、他の家電製品では頻繁に起きていることが、なぜゲーム機の時だけ、毎度のように騒ぎになるのか。
前者と後者の違いは何なのか。
メタゲームに興ずる人たちのことは敢えて除外します。
メガドラ時代の自分のことを思い出して恥ずかしいやら何やら、客観的な話ができるとは思えないからです。
で、こういう時は極端な例を考えればいい。
もしゲーム機が半年毎に少しずつ性能が向上したモデルチェンジ版が出て、ソフトの互換性は最新のものから数世代前までに限られ、古い方から順番にお払い箱になっていくとしたら…確かに値下がりに泣く人は少なくなるでしょう。
そろそろモデルチェンジだからと小売店は安売りをするでしょうし、それを期待して買う人もいれば、いや最新のものを買うのだという人もいて、それは各個人の判断だからそれぞれに納得してのことであるし、いざ使ってみて不満が出てもかなりの程度まで自己責任である。
この方法は、値下がりによる不公平感を失くす、という意味合いにおいては大きなメリットです。
しかし、大きなデメリットもある。
環境が複数になることで制作のコストは跳ね上がるでしょうし、それはわれわれユーザーにとって様々な形を取って不利益として襲いかかってくる。
ゲーム機のゲームが、操作性もインターフェースも安定性もトップクラスなのは、数年間に渡って仕様が固定されているからで、わたしとしてはその好ましい状況が続いてほしいわけなんです。
彼方を立てれば此方が立たず。
値下げが、ずっと性能が同じままであり続けるための止むを得ない結果であるなら、それはある意味、必要悪(わたしは「悪」だとは思いませんが)として受け入れなければならないのかな、と。
そうわたしは思うのです。

2011年7月30日 (土)

ジーン・ワルツ

それは理想主義じゃなくて精神主義って言うんですよ。
とツッコミを入れたくなったりして。
赤ひげを求めるような医療体制は崩壊する。
もう産科医療崩壊前から言われていたことで、戦略面での失敗やシステム構築面での調整不足を、各個人の奮闘で何とかつじつまを合わせていくことが、やがて「もっとできるでしょ?」になり、しかしリソースは有限だから破綻する。
で、現に大野病院事件をきっかけとして破綻してしまったわけですが、この映画はまさに大野病院事件を念頭において作られています。
途中まではとても物足りない映画だった。
だって、現実の事件は遥か前で、事件報道を見ながらいろいろと考え、既に自分なりの結論を出してるわけです。
映画の中で各キャラが思い悩んでいる姿を見ても、あらためて考えさせられたりはしない。
でも、物足りないくらいならまだマシでした。
産科医療の現場をよく知っているばかりか自分自身の体験として遺族の痛みも分かっている、という現実的スタンスだったはずの主人公の女医がいきなり精神論を振りかざし出す。
とても違和感がありました。
そして、なぜこうなったのか、なんとなく分かる。
医療の現場側、遺族側。
その両方にいい顔をしたかったので、両論併記とした。
さらには医療ドラマなので、天才的医師がその才能を発揮するためのピンチを設定する必要があった。
そのために主人公のキャラは歪められ、何が言いたいのか分からない構成となってしまったのではないか。
管野美穂の落ち着いた演技が台無しになってしまったようで、とても残念な映画でした。
十分に考えを整理しないうちに変に中立を気取るとろくなことにならない。
そういう教訓は得られたかな。

2011年7月29日 (金)

お盆前に勝負に出た3DS

いいですねえ、3DSの値下げ。
ご存知のとおり8月11日から15,000円ですよ。
お盆休み前ですよ。
わたし個人としては現状の値段でも特に不満はなかったんですが、やはり携帯ゲーム機の値段は2万円を切るか切らないかが心理的に大きな壁になるのも仕方がない。
お求めやすくなったことで3DSに興味を持った人も多いのではないでしょうか。
ただまぁ、今回の値下げで時間の流れが早くなったことは、あらためて実感しました。
長いことゲーマーをやってきましたが、発売から1年なんてソフトが十分に揃ってなくて当たり前で、そもそも歴代国民機であるファミコンもスーファミもプレステもプレステ2もDSも、最初の年はジャンルの好き嫌いを言わずにゲームを探す必要があった。
それでも特に誰も文句は言わず、じっくりとソフトが揃うのを待っていた。
それが今や、あっという間に普及しないと駄目だってんですから。
この震災後の不景気に何ともバブリーな感覚に思えますが、黙ってでも売れる年末まで待つなんて悠長なことは言っていられないのでしょう。
特に経済に詳しくない俺でも米国債がデフォルトになったら、アメリカじゃ新しいゲーム機どころじゃなくなるくらいは想像がつきますからね。
今が勝負の時、ということなんですかね。
それに3DSのよさは手に取ってみないと分からない。
何せ3D表示なんて、3DSの斬新な面白さであるすれ違い通信やARゲームに比べれば二番手三番手の魅力に過ぎない。
店頭の展示機じゃ恥ずかしくて「顔シューティング」できませんからね。
値段を安くしてでも手に取ってもらえば、口コミはどんどん発生し拡散していく、そういう目論見なのでしょう。
で、わたしとしては、すれ違い通信の人数が増えてくれると非常に嬉しい。
住んでいるところがたまたま田舎だから、なかなかすれ違えませんが、買い物や出張で大都市に行って他のユーザーとすれ違うと、データがやりとりされるのが楽しくて、どんどん他のみんなが遊んでいるソフトがほしくなっちゃうんですよね。
財布の紐を引き締めないと危ない。
このうれしい悲鳴を、もっとハイペースで上げたいんで、今回の値下げには多いに賛成なのでありました。

2011年7月28日 (木)

軍鶏ひっそりと

何気なくイブニングをパラパラしていたら。
何と、あの「軍鶏」が復活していた。
驚きだった。
復活したことにも驚いたが、あまりにもひっそりと目立たないような復活劇だったことへの驚きの方が大きかった。
かつてはかなりの人気を誇ったピカレスク格闘マンガ。
しかし、その章のラスボスを前にしての連載中断。
それからもういったい何年、経ったのか分からないが、すっかり再開はあきらめていた。
だから、もし再開するとしたらビッグニュースだし、かなり前から告知され、俺はそのリスタートを数週間前から今か今かと心待ちにする、そんな流れになるはずだったのだ。
にもかかわらず、イブニング誌の表紙には何らそれを匂わせるものはなく、同じ講談社から出ているマンガ雑誌で告知を目にすることもなかった。
これは俺のアンテナ感度が鈍いということなのだろうか?
もちろん、それもあるかもしれない。
だが、あまり大げさにしたくないという作者の意向が働いたのかな、という気もするのだ。
そもそも不快な感じがした。
今回の「軍鶏」の再開は、同じ作者の連載中の時代劇マンガを中断することにより実現した。
イブニング誌上では、その時代劇マンガのキャラの口を借りて連載をいったん中断し、ひとまずは「軍鶏」を終わらせることに集中する旨の口上があった。
軍鶏が終われば、また連載を再開するのだとか。
俺はその時代劇マンガを読んでいなかったが、そのマンガのファンはどんな気持ちを抱くだろうと思い、場違いな罪悪感を覚えた。
確かに軍鶏は好きだが、楽しみにしている他作品のファンを待たせてまで再開してほしくはなかったのだ。
そして、いざ始まったリョウとトーマがリングに向かう再開第一話。
気になって気になって仕方がなかった。
話の中身よりもリョウの脇腹ばかりが気になる。
中断前、リョウは脇腹に深い傷を負った。
これからリングに向かうというのにいったいどうするんだ!
この疑問にいい解決策を見出せないがゆえの連載中断だったかどうかは分からないが、どうもそんな気がする。
もしかしてなかったことにするにかな、と思いながら各コマを追っていった。
すると、どうとでも取れるような描写となっているではないか。
第一話ではっきりと大怪我を匂わせなかった以上、やはりなかったことになるのだろう。
以前、中国編のラストをなかったことにしているから、今度だって脇腹の重傷はなかったことになっていても不思議ではない。
邪道な見方をしていたからかもしれないが、何とも盛り上がらない第一話であった。
俺は邪推する。
脇腹の傷はどうしたんだよ!と話題にされたくないがゆえのこっそりと再開。
そして、消化試合。
そんな最悪の幕引きになりそうな予感がして、どうにも納得がいかない。
こんなことなら、堂々と傷一つない脇を晒して万全の状態でトーマと雌雄を決してくれた方がよかったのに…。
まだ判断を下すには早すぎるが、俺の嫌な予感を払拭する面白い展開になることを期待したい。

2011年7月27日 (水)

140Kcalを1時間で

最近の当ブログを読み返すとWiiFitのエントリーがかなり多くて、WiiFit関係で知りたいことがあって検索すると上位はほとんどが2〜3年前くらいのものという現状を考えると、世間からかなりずれてることを実感してしまう。
まぁ、そうは言っても今だ24時間以内検索で数万件がヒットするわけで、母数も多いし、ブームに左右されるようなゲームじゃない。
俺のように三年間サボりまくりで急に熱心になり出した人も、そう少なくはないはずだ。
ということで、マイペースで進めて行きたいと思うわけなんだが、それでもここ数日はだれ気味だった。
月曜の朝飯の味噌汁に入れた魚の擂り身(タイムセール半額)が痛んでいたのか、ちょっと味が変だなとは感じていたのだが、普段ならそんな程度じゃ何ともないはずが土日のハードトレーニングで疲れていた内臓を直撃した模様で、昨晩などはベッドでグッタリとして起き上がれず、何とか23時に立ち上がり、測定とざっとしか読んでいなかった3日分の新聞を読みながらの「ながら踏み台」50分をこなしたのだった。
「どうぶつの森」も「ラブプラス」もそうだったように、ちょっとやっては挫折しを何度か繰り返すものの、いざ本気モードになって習慣化したら、逆に何としてもやらねばという気持ちになる。
WiiFitPLUSも、俺にとってそんなゲームとなったようだ。
さて、本気になったからにはいろいろと考えなければならないこともある。
まず、何と言ってもビールとどう付き合っていくかという問題だ。
飲まないというのは論外だ。
そもそもエコポイントで手に入れたビール券が、たっぷりある。
ではどうするか、と言えば、飲んだ分だけ余計に運動するしかない。
しかし、飲んだ分だけというのは誰もが口にするが、具体的にちゃんとそれだけ運動しているのかというのは、ついつい丼勘定になってしまうのが通例で、過去の俺もその例外ではなかった。
そこで決めた。
缶ビール1缶はだいたい140Kcalだ。
ながら踏み台1時間くらいで消費できるカロリーだ。
それはちょっと甘い予測ではないか?と思われるかもしれないが、ながら踏み台をする時はいつも片足3.5kgのウェイトをつけているので、トントンのはず。
そして、今は仕事があまり忙しくない時期なので、平日は2時間をWiiFitに当てているから、ビールを飲みたい、と思ったら何とか時間を作ってプラス1時間のながら踏み台、計3時間のWiiFitをこなして、そのご褒美としてプハ〜ッとやれることにする。
そうすれば、ビールが強いモチベーションとなり、その日のWiiFitはフルプールもこなせて大いに満足が行くというわけだ。
今日も暑い。
DVDで観たい映画もあるから、ながら踏み台のお供にもちょうどいい。
さっそく、このルールを己に定着させようと、意気込んでいるのだった。

2011年7月26日 (火)

ここに死体を捨てないでください!

勧められて読んでみた。
ラノベというよりジュブナイルの懐しい雰囲気を持つライトな読み物といった感じだった。
なかなかの好印象。
確かにキャラ小説ではある。
各キャラにはハイテンションでコミカルな言動が多いし、独特のお約束もある。
誰かが特定の人物や地名に過度の反応を示し挙動不審になったとしても、本人が何ともありませんと言えば、ああそうなのかと他の人は誰も疑わない。
ぎゃあとかうわあとかうぉぉとか、そういうビックリマークも多いが、キャラは全員、成人である。
そういう描写をこちらはマンガで見慣れているからそういうものだと受け止めるが、受け入れられない人は受け入れられないだろう。
また、けっこうご都合主義なところもあり、蓋然性だけで決めつけるなよとツッコミを入れたい部分も少なくない。
ただ、もう推理小説として成立しているかどうかで、イエスノーを言う時代は過ぎ去っている。
必ずしも読者は作者との知恵比べを望んでいるわけではないし、そもそも探偵小説のフォーマットは普遍的に過ぎて、それを使いながらもテーマは別のところにある作品だって非常に多いのだ。
そういう中にあって、こういう緻密ではないが本質の部分はちゃんと納得が行き、しかもトリックや不測の事態でそれが二転三転することと真犯人や被害者とその周辺の人間関係が密接に絡み合っていて、ラストに向けてそれが浮かび上がってくるカタルシスはちゃんとある、そういう小説は「取捨選択ゆえに」敢えて枝葉の部分はルーズにしているのではないかと思える。
この小説の場合、死体遺棄をしでかすカップルが実質的な主人公なのだが、迂闊な言動もあってどうにも憎めない。
もちろん、死体遺棄は犯罪であるから、何の報いも受けなかったらそれはそれで白けてしまったことだろうが、そうひどいことにならないといいなぁ、真犯人に殺されたりしないといいなぁ、と思いながら読んでいたわけで、きっとこれは作者の術中にはまったということなのだろう。
探偵の推理力が眠りの小五郎レベルに思えるのも、トンチンカンで的外れな推理も交えながら、何だかんだで結論に辿り着くのは、むしろ隙があって好ましい。
なお、シリーズ4作目のようだ。
そのうち他のも読んでみるか。

光文社公式サイトの該当ページ
http://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334926762

2011年7月25日 (月)

「本の歩き読みは行儀が悪い!」

と校医のサクラ先生は言った。
しかし、バランスWiiボードの上であれば問題ない。
図書館から借りた本の返却期限が目前に控えていることに気づいた俺は、残り約250頁を一気に消化すべく、筋トレ&ヨガで1時間、バランスゲームと有酸素運動で1時間、ながら踏み台で1時間前後といういつもの休日用メニューを
急遽、変更して、ながら踏み台3時間とすることにしたのだった。
原則、ながら踏み台は借りてきたDVDや撮り溜めたテレビ番組を見ながらの有酸素運動ということで、読書しながらはあまりやったことがなかった。
1時間も歩いていると流石にグッショリと汗をかいて、やや朦朧としてくるし、そうなると活字の上を目が滑るようになる。
読書とながら踏み台の相性はあまり良くないというのが、これまでの理解だったわけだ。
とは言え、工夫すれば、そうでもないことが分かった。
まず、テレビ番組の時のような30分1セットをやめ、10分単位とした。
そして、その都度、休憩と水分を取る。
20分1セットも試したのだが、タイムリミット間近になると本に集中できなくなってくるので、10分が自分にはちょうどいいようだ。
そして、BGMを流さないこと、これが重要。
リモコンから音声ガイドが流れてくるので、いざ始めた後は画面を切り替えても構わないというのが「ながら踏み台」の長所であるから、これまで本を読む時も録り貯めた音楽番組に切り替えて流しながらだったのだが、本を読む、音楽に耳を傾ける、踏み台昇降をするの3つを同時進行するのはどうにも気が散ってどれにも集中できない。
ならば、その3つのうち省けるのは音楽だけなわけで、踏み台昇降の画面を流しながら読書することになるのは当然の帰結なのでありました。
で、その画面が意外な効果を持っている。
もちろん、目は活字を追っているのだけど、やはりテレビ画面は視界の隅に入ってくる。
それがミュージシャンの姿であれば、つい気になってしまうところだが、ひたすら踏み台昇降を繰り返すわが分身Miiの映像なので、全く気にならない。
そればかりか規則的な足音も手伝って催眠効果があり、いつしか読書空間に浸っている。
というわけで、10分1セット、計18セット3時間の読書をシステマティックにスラスラこなし、何とか読了と相成ったのでありました。
これなら通常の読書スピードと比べても、そんなに余計にかかるわけでもないようで、これからも色々と試してみようかな。
でも、ジャンルに依るかもしれない。
今回は特に考える要素のない娯楽小説だったけど、難解な本だったらこうはいかないだろう。
とは言え、時間のない現代人にとって、仕事から帰って来てからゲームも運動も読書も十分にやるなんて無理なわけで、ジャンルによっては十分に運動を兼ねられることが分かったことは嬉しい発見なのでした。
ちょっと娯楽小説の比重を増やすかな。

2011年7月24日 (日)

白夜行

何の予備知識もなしに観たにもかかわらず、これ何かのダイジェスト版なんだろうな、というのが分かった。
にもかかわらず、説明不足だとは思わず、おそらくはこういうことなんだろうな、と全て伝わってきたのは、やはり熱演だったから。
幼い頃に辛い思いをしたがゆえに悪女となった。
その具体的な悪巧みのセリフも表情もほとんどないことが、逆に凄みとなっている。
80〜90年代の空気を再現した映像は確かに見事ですが、それに負けない演技をしている俳優陣はもっと見事だと思うのでした。
奪われる側、虐げられる側だった一組の男女。
今度は奪う側に回ってやる、といった激情は彼らにはありません。
ただ、人の心をズタズタに引き裂く方法を熟知していて、それを淡々と行うのみ。
その空洞を思う時、空恐ろしさから寒気がしてきます。
やはり、この世で最強なのは、自分を大切にしない人間です。
自暴自棄というのとも違う。
あらゆることに絶望し、最初から何も欲しがらない人間を何で縛ることができるでしょう。
子供にそのような傷を与えることの罪深さについて考えずにはいられない、そんな映画でした。
でも、ちょっと気になる点もあったかな。
お互い以外の人間を例外なく情け容赦なく切り捨て、引き返せないところに行ってしまう、そんな決定的な決断が2人にはそれぞれありますが、最後の種明かしは蛇足だったように思うのです。
描くならもっと尺が必要だったし、それができないのだから、走馬灯は不要。
せっかくダイジェスト版であることを感じさせないで来たのに、最後で欲張ってしまったのかな、とちょっと残念でした。
後は枝葉だけど、缶ビールを飲むシーン。
あの頃の缶ビールって、まだリングプルだったはず。
カメラアングルで缶の上部はよく見えないようになってたけど、外したリングプルをどこかに置く描写もなかったし、当時を知っている者としてはすごく気になりました。

2011年7月23日 (土)

騎士団

昨晩はテレビでハリポタをやってたようで、ツィッターの囀りもハリポタ関係が多かったんだけど、その流れでいろいろとネットを流してたら、気になる発言がチラホラ。
「不死鳥の騎士団」について、あれは騎士じゃないだろう魔術師だろうってツッコミが結構あるんだね。
で、思った。
ああ、俺もRPGにドップリとハマってた10代の頃だったら、同じツッコミをしてたかもな、と。
RPGにハマると、世の中の事象全て何でもかんでもRPGスタンダードで行われている解釈で見ちゃう。
俺にも十分、覚えがあって懐かしいやら恥ずかしいやらって気持ちになってしまったのだ。
RPGで使われている騎士とか騎士団ってのは、あくまで一つの解釈をゲームに当てはめやすいように抽出したにすぎない。
だって、騎士ってのは時代によって色々と違うけど、要するに階級だから、所領や財産を持っている人たちのことだ。
少なくともプレートメールを着た剣の達人のことではない。
そういう人もたくさんいただろうけど、そうじゃない人もいた。
騎士団だって、経済活動が主だった団体も多い。
侍と同じだ。
武術に優れた侍もいれば、学問で藩に仕える侍もいるのと同じ。
サムライジャパンに向かって、ちょんまげも帯刀もしてないのにサムライだなんておかしい!という人がいないのは、サムライのスピリットを持っていればそれはサムライであると多くの人が思っているからで、気高い騎士の精神を持っていれば、騎士と言われるってのは、海外のドラマでも映画でもよくあることだ。
まぁ、それでもゲーム的世界との親和性が高いハリポタだから、そういうツッコミをしてしまう違和感も無理からぬことと思えなくもない。
でも、もし仮に現代に魔法を使える人たちがいて、それに魔法を使えない人たちが対抗するとしても、重たくておよそ機能的じゃない甲冑や手持ち武器を使ったりはしない筈。
だって、ピストル持ったチンピラの方が強いもの。
ハリポタ世界に甲冑を着た、それこそ「騎士」が登場したら、積み上げてきた「ハリポタリアル」は崩壊するはずだ。
ハリポタ世界は、騎士道精神を持った人が騎士と呼ばれる、つまりわれわれの現代社会と同じ社会なのだった。
ゲームスタンダードとは別の意味でゲーム用語が使われている場合に、ゲーム知識を振り回して恥をかくってことを俺は10代の頃に何回か経験して、大いに反省した。
ゲームでの経験は現実社会でも多いに役立つと思うけど、知識については、安易に当てはめない方がいいと思うのだった。

2011年7月22日 (金)

タイムラグ

結局、1時間半しかプレイ時間が取れず、たった7面までしか進んでいない「みんなのリズム天国」。
既にクリアしている方もいるようで、例によってネタバレを恐れた検索厳禁を己に課さなければならないのだが、週末を使えば何とかなるだろう。
連続で解けない場合のフォローは1作目からあったが、単に後回しにして次のステージに行くパターンのほかに、まずお手本動画を見て、それでも解けなかったら改めて後回しも選べるようになったので、「決して安易に逃げたわけではない。それなりの努力をした上で一時退却したのだ」と己に言い訳しやすくなったことも、週末で「何とかなる」ことに繋がるかもしれない。
もちろん、実力で全て最後まで行きたいとは思っているが。
さて、タイムラグだ。
音ゲーやリズムゲーを何作かやっている人なら分かってくださることと思うが、入力が反映されるまでのタイムラグが全くないゲームはあり得ない。
いや、客観的には「ある」し十分に可能なのだが、実はタイムラグというのは主観的なものであることがとても多いからだ。
確かに客観的にみて明らかにずれているゲームはある。
しかし、気落ちよく弾かせるために敢えてずらしている場合もあるし、それが技術力不足によるものなのかどうかは一概には言えない。
その上で、きっちりタイミングがあってるゲームであっても、どのくらいの走りやモタリが遊びの部分として設けられているのが気持ちいいかは人によって異なる。
ああ、そうか。
さっきの一文は不正確であった。
万人にとってタイムラグがないゲームはあり得ない、と言えばより意図するところが伝わるであろう。
どのゲームにも特有のくせがあり、それに合わせて自分をチューニングしていくすり合わせ。
音ゲーにも楽器としての側面はやはりあるということなのだろう。
そういうわけであるから、連続で失敗しタイムラグを感じた時は、自分に聞いてみる必要がある。
おまえは修練不足なのではないか?
自分がずれているのをタイムラグがあるなどと言ってゲームのせいにしていないか?
そう胸に手を当てて、再び挑むのである。
今回も最初の面で遅い球は打てても早い球は全く打てずに序盤からつまった。
しかし、ずれているのは自分だ頑張れと己を鼓舞し、何とかパーフェクトまで辿り着いた。
そして、今やタイムラグなど全く感じない。
現在の壁であるタンバリンのABボタン同時押しも、今のところずれまくりだが、ゲームのせいにして客観的には存在しないはずのタイムラグをあることにしなければ、そのうち開眼することであろう。
時間をかけて取り組める土日が楽しみである。
ただ、こういう風に音ゲーで挫けない気持ちを持てるようになったのは、ある反面教師のおかげなんだよな。
数人で我が家に集まって発売されたばかりのスペースチャンネル5を楽しんでいた時のこと、(俺はそのことをすっかり忘れていたのだが)セガを親の仇のように憎んでいた彼はあからさまに不機嫌で、ボタンを押しながらタイムラグがあるクソゲーだとブツブツ言っていた。
こんなに気持ちよく操作できるゲームも、何とかして貶したい人間にとってはタイムラグの塊でしかないのかと、とても勉強になったものである。
繰り返す。
タイムラグとは主観的なものなのだ。