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2011年6月

2011年6月30日 (木)

どうせならクールビズよりビールビ

タイトルをつけ間違ったのではありません。

どうせならクールビズよりビールビズ

と打とうとして、ビまでで送信してしまったのではないのです。

自分で何気なく言ったギャグに、自分自身が妙にウケてしまうことってありますよね。

先日のTwitter上でも、それが起こりました。

話の流れで「クールビズじゃなくてビールビズですよ」と囀ったわたしは、なんだかすごく気の効いたことを言ってしまったつもりになり、それを単独で繰り返しました。

そして、それだけでは収まらず、前述の5・7・5の俳句にしてしまったのであります。

暴走は止まりません。

まず、サラリーマン川柳に応募しようと思いました。

応募するだけなら自由ですから。

そして次にこう考えました。

3DSのすれ違い通信で自分のMiiが発するメッセージをこれにしたらどうだろうか、と。

ここ数日のすれ違い通信の結果を見るにゼルダで買ったばかりの人がそこそこいるようで、どうにも挨拶が固い。

駄洒落を垂れ流すのも悪くはないだろう。

そう思って、「すれ違い伝説」を立ち上げ、Mii(任天堂版のアバター)のメッセージの編集画面を見たわたしは、悪い予感が的中したことに気づきました。

メッセージの文字数は16文字までだったのです。

何とかならないか、どこか漢字にして文字数を減らせないかと思いましたが、どうにもなりません。

仕方なく、語尾の「ズ」を削って16文字に収めたのでありました。

そこで気になりました。

16文字ではなくもう一文字分だけ増やせば俳句や川柳を発信できることに、任天堂が気づいていたのかいなかったのか。

気づいていたけど、むしろ俳句や川柳だらけになって、メッセージを発するという行為に特定の色がついてしまうことを心配して、敢えて16文字にしたのか。

真実は分かりませんが、何となく後者のような気がします。

俳句や川柳に風刺や主張を込める人もそれなりにいますから。

だとしたら、そこまで考えてツールってのは作るんだな、とちょっと感心しました。

2011年6月29日 (水)

さや侍

もう松本人志監督の映画は観ません。

たけしも初期の映画はわけわからんのが多かったから、大化けしないとは限らないけど、ここまできついともうあきまへん。

評判が悪いのは知っていましたが、一度くらい観てみるかと思ったのが失敗の元。

さや侍、という単語から、「武士の家計簿」のような映画を想像して、それなら大丈夫だろうと高をくくったのも失敗の元。

ドリフのコントをセットをやたらとリアルにして数倍に薄めたような、そしてドリフのコントの足元にも及ばない「コミカルシーン」は、とにかく退屈でひたすら苦痛でした。

ラストに至るシリアスシーンも全てが予想どおりでしらけましたしね。

笑いあり涙あり。

それを目指したのでしょうね、きっと。

でもどっちも駄目でした。

こういう監督が何をやりたいかがありありと伝わってくるけど、やれてないからイライラする映画ってのは、つまらない映画の中でも非常にたちが悪い。

だって、家の中でなら罵声を浴びせられるけど、映画館では我慢しなきゃならんのですよ。

精神衛生上、実によろしくない。

まぁ、我慢できずにブツブツ言ってる観客もいましたけどね。

でも、アウトレイジや銭ゲバで印象的な演技を見せてくれた柄本時生さんがレギュラー級の

出番の多さだったんで、そこは嬉しかったかな。

2011年6月28日 (火)

ドラマやアニメのOPの在り方

どうやらtwitterで嘘を囀ってしまったらしい。
ということに気がついたのは、今日のひとりカラオケで海賊戦隊ゴーカイジャーのOPを歌っていて3番の途中に差し掛かった時。
俺は「ゴーカイジャーのOPは素晴らしい。1番から3番まで全て同じ曲なので、CDを聴いて練習しなくてもいきなり最後まで歌えるからだ」と思っていて、その旨をtweetしたのだが、それは単なる勘違い。
確かに2番は1番と同じ曲調なのだが、3番には多くの歌同様にサビの繰り返しがあったのだった。
このサビの繰り返し〜いわゆるリフレインや、1番2番とは全く異なる部分は、現在、ほとんどの歌に存在していて、それをうまく歌えることが家や車の中での練習の成果を発揮する最大の見せ場だったりするわけだが、数年前からこれでいいのだろうかと思うようになった。
ヒット曲の1番なら知っているが、CDを聴いてまで練習していないので、1番と異なるメロディの部分は歌えないという人はたくさんいるだろう。
そういう人は「う〜ん、ここは分からないな」と他のみんなに言い訳しながら、知っているサビの部分に差し掛かるのを待つことになる。
それはカラオケ人口減少の理由の一つになってはいないのだろうか。
もちろん、1番2番と歌ってきて、最後に万感の思いを歌詞に込める…それこそ歌だ、というのは分かる。
だが、ドラマやアニメのOPなどで何度も耳にした歌くらいは、最後まで「歌えて」しまえることも重要なのではないだろうか。
俺は言いたい。
テレビサイズとCD収録サイズで曲の長さが違ったりせず、全く同じ。
かつ、1番から3番までメロディラインは変わらない。
だから、番組を毎週、見ていて計13回なり26回なり52回なり聴いたので、歌ったことはないが頭には入ってしまっている…そんな人が最後まで歌える。
そういう作りに、せめてドラマやアニメのOPくらいは戻せないものかな、と。
カラオケの練習をわざわざする人は今や少数派なのだから。

2011年6月27日 (月)

バウドリーノ

読了。
ずいぶんと長いことかかった。
上下巻で700ページというのは確かに長編ではあるものの、ものすごい大長編というわけではない。
しかし、大長編を読むくらい時間がかかった。
すごく密度が濃くて全40章の各章ごとに考え込んでいたから。
それでも、まだ読みやすくなった方だと思う。
ウンベルト・エーコ著。
今や世界的に有名な碩学の著作であるから、こちらもさぞかし手応えがあるに違いないと身構えてページをめくる。
だが娯楽だった。
小難しい本に違いないという思い込みは、いい意味で裏切られた。
「フーコーの振り子」は好きだが、小説というよりはオカルト知識の紹介本として捉えていたし、オカルティストを小馬鹿にするそのスタイルに喝采を叫んだ俺だ。
目が活字の上を滑ることも多かった俺だ。
そんな風にエーコの著作を捉えていた俺にとって、全てを熟読し堪能させてもらった今回は、実質、初エーコ。
これほどまでにエンターテイメントに徹する作家だとは思わなかった。
今までも尊敬してたけど、それは学者としてのエーコへの尊敬。
これからはストーリーテラーとしても、最大限の敬意を払わせてもらおうと思う。
「フーコーの振り子」で挫折した人にもオススメできる。
バウドリーノはほら吹きだ。
そのほらに動かされた多くの人の人生を変え、ほらが現実のものとなってしまう。
この前振りから想像されるのは、調子のいいペテン師の姿だが、実際にわれわれの前にあらわれる姿は燃に非ず。
情に厚く、良かれと思って専ら他人を喜ばせようと思って嘘をつく、むしろ純粋で善良と言っていい男の姿。
この意外性に惹かれ、彼の50年に渡る数奇な人生を追いかけることとなるのだった。
時は第3次〜第4次十字軍の時代。
貧しい農民の息子バウドリーノが、神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒに気に入られ、彼の養子となるところから話は始まる。
フリードリヒはたいへん魅力的な人物に描かれている。
バウドリーノの主観が入ってのことではあるが、概ね公平な君主と言っていいだろう。
そのフリードリヒにバウドリーノは惚れ込む。
バウドリーノの最初の大きな嘘もフリードリヒを喜ばせようと思ってのものだ。
この真っ直ぐに義父を愛する様子が上巻を通じて描かれる。
時は戦乱の時代だ。
イタリア北部の自由都市群は必らずしもフリードリヒに従わず、敵になったり味方になったり、状況は混沌としている。
生まれ故郷が敵に回ることもある。
そんな中、最善の道を探るバウドリーノは、とても誠実な人間に思える。
まさに彼の黄金時代だったと言っていいだろう。
だが、人は最も良い時期を後になってから知るもの。
黄金時代の彼は、ヨハネの王国を探しに行きたいという思いに取り付かれ、自分の恵まれた境遇に気づいていなかった。
下巻で、いざ王国を探す旅に出かけてからの後半生は苦難の連続となる。
後年、やはりヨハネの王国を探して旅立ったマルコ•ポーロはジパングに辿り着いたが、バウドリーノの行く手にあらわれるのは異形の怪物や不可思議な原住民が住み、魔界としか思えない驚異の自然現象が支配する伝説の世界。
上巻がリアリズムの世界であっただけに、違和感を感じそうなものだが、既にバウドリーノが自分のついた嘘に自分が騙されている様子がたっぷりと描かれているものだから、どこまでが本当でどこからが嘘なのか判然としないそんな混沌も自然に受け入れられる。
やがて彼は自分の嘘で塗り固められた人生に決着をつけることになるのだが…。
この小説は多重構造となっていて、嘘と本当について、様々なアプローチが取られている。
嘘をベースに、その「ベースとなっているものが嘘であることを疑いもせず」理路整然とした理論を構築して激しく討論する学生時代のバウドリーノと学友たちなど、その最たるものであろう。
だが、現代人だって、枝葉の間違いは素直に認めるが、そもそもの前提が間違っているから少しずつおかしなことになるのだということだけは認めない人が多い。
嘘にまみれたバウドリーノの英雄的な冒険行を振り返る時、しょせんは主観的に生きるしかないわれわれにとって本当と嘘の間に如何ほどの違いがあろうかと考えてしまうのである。
もちろん、これは娯楽小説だ。
上巻における中世の生活描写だけでも、その眼前に迫るような描写にワクワクする。
こんなすごいものが本編の中では枝葉なんだから、パチクリとも読み逃せないのも当然というものなのだ。

岩波書店公式サイトの該当ページ
http://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/qsearch

2011年6月26日 (日)

ザ・松田 ブラックエンジェルズ

あまりの表紙のインパクトに、これは買わずにはいられない、と。
もったいないなぁ。
もっと目立つところに平積みで陳列しておかないと。
ブラックエンジェルズANDマーダーライセンス牙の終盤で松田さんが実質的な主人公になって、いっそ松田さん主役のシリーズにした方がいいんじゃないか?と思ったものですが、本当にそんなマンガが出てたんですね。
あまりにも豪快で馬鹿馬鹿しく、大笑いできます。
牙の頃からの芸風を受け継いでいて、どっかで見たような人が極悪人顏にアレンジされて登場し、もちろん酷い目に遭うのです。
その極端なアレンジっぷりは言動にも現れます。
いくらなんでも歌舞伎役者が店のドアを開くなり「暫く暫く〜」なんて言うか?
それを見た店内の他の客が、あっあの人は?なんて反応するか?
もう、現実の事件と結びつけて考えようとか、作者がそこに込めたメッセージを読み取ろうとか、これを読んだ関係者がどう思うだろうとか、そんなことはいっさい考えなくなるんですよね、ここまでやられると。
もう文句を付ける方が馬鹿って感じ。
ここらへんは男塾以上です。
で、松田さん。
前述のブラックエンジェルズANDマーダーライセンス牙での復活の時にはおいおいと思ったものです。
作者は「マンガなんだから細かいことは考えずに楽しければいいと思った」みたいなことを言ってましたが、もともとの少年ジャンプの時は、死んだ人間は蘇らないというルールを守ってそれにより天誅を下す側もまた正義ではないというテーマがあったわけだし、それを貫くために死んだ松田さんの変わりにそっくりさんを出して、でも違う人間だから完全に松田さんの代わりはできないという苦悩もあったわけですよね。
それが全部、台無しになってしまう気がして、どうにも受け入れられなかった部分がありました。
しかしまぁ、「牙」「ブラックAND牙」とギャグ路線で続いてきて、慣れてきた。
ジャンプでの松田さんは豪快ではあっても馬鹿ではなかったという思いもなくはないんですが、新たな松田像を示すのなら見てみるのも悪くはない。
そんな気分でいたところで尖閣諸島の話が出てきて、政治のことはよく分からないし、日本人とか中国人とか関係ないと思っているが、情には厚くかかわった人間には裸一貫でぶつかる松田さんの姿が描かれる。
このエピソードがなかったら、New松田さんのキャラクターは固まらなかった。
そして、「牙」からこっちずっと「清廉な政治家である板垣総理」というキャラに引っ張られて、純粋な娯楽マンガになれずにいた路線におさらばすることができた。
さらば板垣。
ようこそ松田。
というわけで、このマンガ、スピンオフでマンネリのように思えて、実はブラックエンジェルズのシリーズに新風を吹き込んだと思えるわけです。
雪藤がセッ◯スやりまくってると、ジャンプ時代の女性ファンが怒り、俺もその気持ちは分かるという感じだったのですが、松田さんだとまぁいいかという感じですしね。
現在1巻続刊中。

ゴラク公式サイトの該当ページ
http://www.nihonbungeisha.co.jp/books/pages/ISBN978-4-537-12739-3.html

2011年6月25日 (土)

すれ違い伝説(3DS)

3DSの内蔵ゲームである「すれ違い伝説」をやっとクリアした。
3DS本体をすれ違い電波を発した状態で持ち歩くことで、すれ違った人をすれ違った回数に応じた強さの勇者に変換してダンジョンを突破していくミニRPG。
東京や札幌などの都会の人は、あっという間に仲間が集まってとうの昔にクリアし、何周もしていると思われるが、ここは田舎町にすぎない根室。
ほとんどすれ違わないから、札幌や釧路に行った時に大量の仲間を動員できる他は地道に雇った勇者でちまちまと進めるしかなく、クリアには4ヶ月もかかったという訳だ。
とはいうものの、3DSはこのためだけに持ち歩くのではない。
他のゲームを起動している最中でもすれ違い電波を発しているから、あくまでメインは他のゲーム、すれ違った人がいた時だけプレイし、ダンジョンを進む。
そういうゆるい楽しみで十分に楽しかった。
そして、すぐに2周目に突入した。
エンディングで各フロアのモンスターに最後の一撃をかました勇者が紹介されるのだが、そのほとんどがすれ違った勇者ではなく雇った勇者であったことに、次は全てをすれ違った勇者にしたいという欲求が湧き上がってきたからだ。
単純なゲームではあるが、2周目をやりたい、もっと上手く進めたいと思わせるゲームであったというわけだ。
そして、あることに気づいた。
俺はずっと都会に比べて田舎は不利だなあと思ってきた。
しかし、田舎でしかなし得ない達成し得ない目標もあるではないか。
ドラクエ I プレイ。
俺はここしばらく1人としかすれ違っていない。
もう彼とは18回くらいすれ違っている。
どうやらレベルの上限は7であるらしく、ずっとレベル7の勇者として参戦してくれていて、ラスボス戦闘でも、最低でも3回攻撃で21ダメージを叩き出す超強力なワンマンアーミー。
その火力は2周目でもそのままで、序盤のゴースト程度は一撃で成仏させられる。
もしや、彼だけで2周目をクリアすることも可能なのではないか。
そして、これは途中で他の人とすれ違う可能性が大きい都会ではなし得ぬこと。
達成した暁には「クックック…都会の奴らにはこれはできまい。ハッハッハ!」と優越感を得られるのではあるまいか。
まぁ、根室市内で彼以外の人とすれ違うこともないわけではなかったから、途中で途切れるかもしれないが、それはそれで仕方がない、達成できればラッキーくらいの気持ちで、毎日、3DSを持ち歩いているのである。
RPGにはもともと自己満足の要素が強い。
だから、ツボにはまると何周でもしてしまう。
近年ではボリュームの増大化から何周も、ということはほとんどなくなったわけだが、ミニRPGは忘れかけていたRPGの楽しみ方を教えてくれる。
すれ違い伝説は、その根源の部分を抽出している、だからこそゆるくゆるく続けてしまうのだと思う。

2011年6月24日 (金)

代替エネルギーの明るいニュース

「塗って作れる太陽電池」のニュースはとても興味深かった。
以下は、そのURLである。

http://eco.nikkeibp.co.jp/article/news/20110622/106720/

固定のパネルではなく、服の表面で太陽光発電ができるようになれば、場所を選ばなくなる。
太陽光発電のネックは場所だと思っていただけに、ぜひとも頑張ってほしい研究だ。
俺は原発については、推進でも反対でも、その中間の維持でも、わりとどうでもよかったりする。
十分な電力さえ供給してくれるなら、その手段は問わない。
代替電力で電力需要を賄えるならそれに越したことはないのだ。
だから、代替電力が本当に十分な発電能力を持っているかについて、YesやNoを唱えたり、それについて根拠がどうだとか言い争っている場面に出くわしてもピンとこない。
何も、とりあえず事故を起こしていない原発だけ維持して、代替エネルギーがものになってきたら、その分だけ原発を減らして行けばいいではないか。
代替発電による発電量が1000なり10000なり100000なり増えたら、その増えた分だけの原発を、発電量1000なり10000なり100000に相当する分だけの原発を減らせばいい。
そうして最終的に原発に頼らない社会になれば万々歳だ。
これなら原発に賛成する人も反対する人も、いつも言ってることと変わらないんだから問題なかろう。
また、原発は実は高コストという議論もピンとこない。
もちろん、十分な安全対策を取れば、これまでよりコストは高くなるだろう。
ならば、もちろん十分な安全対策を取ってもらうのだ。
その上で他の手段より高いか安いか議論する必要などない。
後は市場に任せて、実際に安い方を選んでもらえば、議論の余地なく「安全を十分に担保した上で」安い方がどちらなのか分かるのだから。
そんな訳で、有望な代替エネルギーのニュースはたいへんに望ましいことだ。
服の表面積を大きくしようというムーブメントが起き、それにより女の子のスカートが短くなくなったら悲しいが、致し方あ…あ、あ、あ、あるまい。

オリジンのアニメ化

初代ガンダムの公式マンガ「ジ・オリジン」のアニメ化の話。
まだガンダムエース誌を読んでいないので、どのようなアナウンスなのかは分からないが、受けた印象はよくもなく悪くもなく少なくともビックリはしなかった。
いつかはやるんだろうなと思っていた。
ただ、最後のカードを切るのが早すぎはしないかと感じた。
ジブリで言えばナウシカの原作コミック版の未映画化部分の映画化のようなもので、もととなるストーリーはあるしいつでも作るんだから、いよいよ全くネタがなくなってからでいいと思っていたのだが、1年戦争もののビジネス展開は思ったよりずっと大きな柱で、それが途切れることは何としても避けたかったのだろう。
既に大多数のメカはプラモ化されてしまっている。
しかし、これからしばらくはオリジン版のメカを次々と商品化していけばいいのだから、安泰だ。
まぁ、ガチャポンやMSインアクションで少しだけ展開されたがあとが続かなかったことを思うと、そううまくいくかな、という気もするのだが。
さて内容だ。
なぞるのか、それともさらにアレンジするのか。
俺はさらにアレンジしてほしい。
テレビのガンダムを翻案するという形のオリジン、そのアニメ化はオリジンをさらに翻案する形であってほしいし、そうでないと興味が続かないからだ。
そもそもオリジンともともとのテレビ版で矛盾する場合は、テレビの方が優先されている。
テレビのガンダムが公式だからだ。
見た人の多さが段違いであることを思うと当然のことだ。
つまりオリジンの映像化は、最初から公式でないことが分かり切っている初の宇宙世紀ものガンダムということ。
好きにやってくれた方がこっちも嬉しい。
それに、オリジンの中には単にテレビ版をなぞっている部分もあり、それを映像化されてもピンとこないはずだ。
いずれにせよ、富野分は「ない」のだ。
ユニコーンでは、それに何となく物足りなさを感じている俺だが、それを補う何かが感じられるといいな、となんだかんだで期待はしている俺なのだった。

2011年6月23日 (木)

また打ち切りか…

まさか「華と修羅」が打ち切られてしまうとは…。
確かに、ここ数週の新展開「実は百合子は生きていた」編はあまりにも唐突だったが、このタイミングで来週が最終回ということは、打ち切りまでの間に猶予をもらったがゆえの展開だったのだろう。
そして、最終章直前のストーリーは人気がなかったということなのだろう。
いくら、俺にとって面白かったとしても、だ。
ノノノノの時もそうだったが、ヤンジャンで俺が面白く読んでいるマンガがなぜか唐突に打ち切られることが多い気がする。
認めたくないが、俺が面白さを感じるポイントが世間からずれてきている…んだろうなあ。
しかし、ヤンジャンで打ち切られたマンガとて、他の雑誌でなら一線級なわけで、とても勿体無い気がするのも確かだ。
末長く連載するつもりなのか、人気次第では容赦なく打ち切られるヤンジャンでやっていくのか、それはその漫画家さんの選択なんだろうけど、それまで読んできた読者からすればガッカリが積もり積もっていくし、同じ出版社の別の雑誌で続きをやっていくとか、何か方法はないものなんだろうか。

空振それ自体よりも

ここのところ、根室では空振が多い。
ニュースにもなったのでご存知のことと思うが、国後島でロシア軍が弾薬処理を行っているのだ。
仕事をしているとドーンという音とともにガラス窓が震える。
そうと知っていなければ何事かと不安になって当然というもので、いささか不快である。
しかし、この不快は音や振動そのものというより、今回の弾薬処理を巡るあれやこれやに拠るところが大きい。
というのは、新聞報道がなされる前とあととでは、空振の大きさが露骨に違うのだ。
先週から音や振動はあったが、今ほど大きくはなかった。
だから何だろうな、という程度だった。
それが「この空振に根室市民は不安がっている」という報道がなされたとたんに、音も振動も数倍に大きくなり頻度も増した。
これは、もう報道で伝えたから本格的に弾薬処理をやってもいいだろうということなのか。
その一方的な思い込みとなし崩しが、弾薬処理自体にはそれほど不快感もない俺をカチンとさせるのであった。
「不安がっている」という報道の前には全く不安に思っていなかったのに、報道が不安要素の増大を後押ししたのだとすれば、これは無意識のマッチポンプとさえ言える。
俺は、この弾薬処理が北方領土問題とか日本の主権とかにそれほど大きく影響するとは思えない。
だから、順を追って通告した上で行われていたならたんたんと受け入れていたであろう。
その程度のことでさえ、「既成事実化したあとの事後通告」には腹が立つ。
個人でも国家でも、コケにされるのはもっとも我慢のならぬことなのだ。